里見氏史跡-オーソドックス編

里見氏の歴史の舞台をめぐる

里見氏史跡マップ
(1)白浜城跡(白浜町白浜)

(1)白浜城跡(白浜町白浜)

 里見氏の最初の城。里見義実が鎌倉公方足利氏の指示で、白浜を拠点にしていた対立勢力の上杉氏を追い出して、安房支配にのりだしたときの城。海上交通路をおさえる拠点。東西1kmにわたって戦国時代初期の城跡の様子が残っている。登り口にある観音堂のおビンズル様は里見氏ゆかりのもの。麓の青根原神社が城主の居館があった場所らしい。江戸時代に建てられた里見氏の記念碑がある。

(2)杖珠院(白浜町白浜)

(2)杖珠院(白浜町白浜)

杖珠院 文化財マップ

 嫡流の前期里見氏(義実-成義-義通-義豊)の菩提寺。義実の法号が寺号になった。山号は三峯山。曹洞宗。本堂内に前期里見氏歴代の木像や古文書が展示されている。本堂横には江戸時代に建てられた里見義実の供養塔があるが、いちばん右の石塔は中世の宝篋印塔(ほうきょういんとう)である。

(3)稲村城跡(館山市稲)

(3)稲村城跡(館山市稲)

稲区と稲村城跡 文化財マップ

 義通・義豊などの前期里見氏が安房支配の拠点にした城。交通・経済・政治の中心である安房の国府をおさえる位置にある。城山や周辺の丘陵には、堀切や土塁・虎口(こぐち)・腰曲輪(こしくるわ)などの城の遺構がよく残っていて、戦国時代前期の姿がみられる。一族で争った天文の内乱の舞台になった。

(4)延命寺(三芳村本織)

(4)延命寺(三芳村本織)

延命寺 文化財マップ

 分家にあたる後期里見氏(実堯-義堯-義弘-義頼-義康-忠義)の菩提寺。実堯の法名が寺号になった。曹洞宗。本堂左の高台に歴代の墓所があり、中世の石塔が並んでいる。里見氏の古文書やゆかりの品も多数伝えられている。関東大震災までは六代分の木像があったが、いまは1体のみ残る。

(5)滝田城跡(三芳村上滝田)

(5)滝田城跡(三芳村上滝田)

 はじめ一色氏が居城にしていた。その後天文の内乱で家督をうばった里見義堯が、稲村城を出てしばらく在城した。内陸交通の要衝。ここから上総へ進出していった。

(6)龍喜寺(三芳村上滝田)

(6)龍喜寺(三芳村上滝田)

 里見義通が創建した天笑院が、義豊の法号の高巌院に名を替え、のち現在地に移転して龍喜寺になったという。曹洞宗。高月城という城跡に建っている。天笑院は義通の法号と同じ。

(7)犬掛古戦場・大雲院跡(富山町犬掛)

(7)犬掛古戦場・大雲院跡(富山町犬掛)

 天文の内乱で上総に追われていた義豊が、1534年(天文3年)4月6日、反撃のために安房へ進入し、義堯の軍勢と激戦を繰り広げて戦死した場所。臨済宗の大雲院跡地に義通・義豊の墓と伝えられる石塔がある。

(8)岡本城跡(富浦町豊岡)

(8)岡本城跡(富浦町豊岡)

 里見義頼が戦国時代の終わり頃に居城にしていた。水軍の拠点で、北条氏の安房侵攻を防御するための城だったが、義頼が家督を継ぐと、ここが安房・上総支配の拠点になった。

(9)光厳寺(富浦町青木)

(9)光厳寺(富浦町青木)

光厳寺 文化財マップ

 1587年(天正15年)に死んだ義頼の菩提寺。曹洞宗。墓所には義頼の墓のほか多数の中世石塔がある。

(10)館山城跡(館山市館山)

(10)館山城跡(館山市館山)

城山(館山城) 文化財マップ

 里見義康・忠義が居城にした里見氏最後の城。義康が1591年(天正19年)に岡本から移転し、1614年(慶長19年)に滅亡するまで在城。高の島の湊を中心に城下町を整備したのが、現在の館山市の起源になる。城山だけでなく、東の御霊山も城内。御霊山の周囲にはいまも堀が残っている。

(11)慈恩院(館山市上真倉)

(11)慈恩院(館山市上真倉)

慈恩院 文化財マップ

 1603年(慶長8年)に死んだ義康の菩提寺。曹洞宗。もとは館山城内の義康の持仏堂だった。義康の墓がある。

(12)鶴谷八幡宮(館山市八幡)

(12)鶴谷八幡宮(館山市八幡)

鶴谷八幡宮 文化財マップ

 安房国の総社で、里見家の氏神。里見氏歴代は必ず社殿の修理事業をおこなった。

里見氏の歴史の概要

 里見氏は室町時代に鎌倉の足利氏に仕え、15世紀中頃の戦国時代になると、上杉氏と対立する足利氏の指示で安房へ進出した。安房を拠点にして東京湾の制海権を上杉から奪ったが、やがて小田原北条氏が進出してくると、やはり東京湾の海上交通路が生み出す権益をめぐって抗争を繰り広げた。

 里見家は義豊のときに、実堯・義堯父子と内乱をおこして分裂、嫡流から庶流に家督が移ってしまった。そのため嫡流を前期里見氏、庶流を後期里見氏とよぶ。

 秀吉・家康の全国政権ができると、その家臣になって海上の権限を失い、忠義のとき江戸幕府は東京湾の危険をとりのぞくため、里見氏を伯耆国(鳥取県)に移し、滅亡させた。

1447年里見義実、安房から鎌倉の公方のもとへ出仕する
1456年義実、上総国境へ軍勢を出す
1508年義通、安房国総社鶴谷八幡宮を造営する
1526年義豊、品川に北条氏を攻める
1533年天文の内乱(里見家の庶嫡が逆転)
1537年上総武田氏の内紛に介入、北条氏と対立
1538年国府台合戦で武田氏が弱体化し、上総侵入を開始
1553年安房・上総国境付近で動乱おこる(1555年まで)
1560年北条氏に久留里城を囲まれ、上杉謙信に支援依頼
1564年義堯、国府台合戦に敗れ、北条氏が上総・安房へ侵入
1567年北条氏との三船山合戦で勝利(上総を回復)
1577年小田原北条氏と和睦する
1580年天正の内乱(里見家の後継争い)
1590年小田原合戦で、豊臣秀吉に上総の領地を没収される
1591年里見義康、館山城へ移る
1597年安房国で太閤検地を実施(安房国9万石となる)
1600年関が原合戦の恩賞で、常陸国鹿島で3万石加増
1614年里見家、倉吉へ移される(事実上の配流)
1622年里見家断絶

里見氏の系図

里見氏の系図