延命寺<三芳>

延命寺<三芳>

延命寺の概要

左:延命寺 山門 右:延命寺 境内

(南房総市本織2014-1)

 南房総市本織字稲荷森にある曹洞宗の寺院で、山号は長谷山。本尊は虚空蔵菩薩。開基の里見実堯以降忠義までの後期里見氏の菩提寺です。寺伝によれば永正17年(1520)に里見実堯が吉州梵貞を師の礼をもって請じ開山としたとされています。慶長年間には里見氏から217石余の寺領を与えられ、その後徳川家からも同様に与えられて保護されました。安房の曹洞宗の中心的なお寺です。十一面観音菩薩が安置される観音堂は、安房国三十四観音巡礼の24番札所として知られ、また毎年8月には地獄極楽図が公開されて多くの参詣者が訪れます。

参道エリア

(1) 里見氏旧跡碑

(1) 里見氏旧跡碑

 明治41年(1908)に、船形に住む正木氏子孫の正木貞蔵と元安房郡長の吉田謹爾など安房の名士が中心となって、荒廃していた安房郡内の里見氏墓域整備が行なわれた。有名書画家に揮毫を依頼した作品を売って資金を調達し、延命寺の墓域を手始めに行なわれ、翌年、その事業を記念して参道入口に建てられた里見氏墳墓の修復記念碑がこれ。表の題字は埼玉県本庄出身の書家諸井春畦の書で、裏面の文は三十三世大嶽和尚がつくり、春畦の妻諸井華畦が書いている。石工は俵豊石。里見氏子孫の里見義孝が用意していた石が使われた。

(2) 法華供養塔

(2) 法華供養塔

 明治31年(1898)に三十一世住職の大棟和尚が建てた法華経読誦の供養塔。明治初期に寺領を失って衰えた寺運を再興するため、大棟和尚が12年かけて法華経一千部を読誦した記念に、安房郡各地の信者や末寺の寄進でこの塔を建てた。

(3) 葷酒塔(くんしゅとう) 「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」

 禅宗寺院の門脇に建てられる碑。清浄な境内に修行の妨げになる不浄な酒や葷(ニラ・ニンニクなど)を口にして入ることを禁じた標識。天明3年(1783)に本織村出身で日本寺住職だった愚傳という和尚が建てたもの。この人は鋸山の千五百羅漢建立を企画実行した人である。文字を書いたのは屋代師道という江戸の人。幕府与力で、文人として知られている。

本堂エリア

(4) 大般若講連中寄進銘塔

(4) 大般若講連中寄進銘塔

 寛政9年(1797)から文化12年(1815)まで19年をかけて、山門や庫裏・鎮守鳥居など境内施設の修復事業が行なわれた。末寺と安房国内の信者からなる大般若講によって建てられたもの。「石工周治」とは地元本織出身の名工武田石翁のこと。

(5) 清凉壇(せいりょうだん)

(5) 清凉壇(せいりょうだん)

 観音堂前のビャクシンの側に「清凉壇」と刻んだ石碑がある。『房総志料続篇』に「延命寺の僧が葬儀に行き死者を弔うとき、引導をわたす偈(げ)(経典の一節)が出ず、寺に帰り恥じて火中に身を投じた」との記事がある。ご住職の言によれば、後にさぞ熱かったであろうと、「清凉」という文字の碑を建立したものであろうということである。文字を書いたのは葷酒塔と同じ人。

(6) 延命地蔵尊

(6) 延命地蔵尊

 安政6年(1859)に泰山・篤庵・亮欽の3人の僧侶が願主となって建立した。石工は長狭郡の平兵衛と清治郎。関東大震災まではビャクシン(南房総市指定天然記念物)の前にあった。右側にある附属の石碑には延命地蔵経の一節が彫られている。

(7) 手水石

(7) 手水石

 天保4年(1833)に江戸大相撲の常盤戸改め出木山藤四郎が奉納したもの。出来山は上堀村(南房総市旧三芳村)の出身で、文化13年(1816)初土俵、天保3年に出来山を襲名し、三年後に引退した。最高位は幕下二段目筆頭。嘉永3年(1850)に没し、墓は江戸本法寺(台東区)と郷里の勧修院にある。現在年寄名になっている。

(8) 聖観世音菩薩坐像

(8) 聖観世音菩薩坐像

 享和2年(1802)、二十三世のときに建立された。台座には牡丹や獅子・龍の彫刻が施されている。石工は平郡の常三郎とある。

(9) 里見氏墓域道しるべ

(9) 里見氏墓域道しるべ

 「此奥に里見氏の御墓あり」と刻まれた里見氏塋域への道しるべ。参道入口にある里見氏旧跡碑の裏面を書いた書家諸井華畦女史の筆跡である。

裏山エリア

(10) 里見利輝供養塔

(10) 里見利輝供養塔

 里見忠義が元和8年(1622)6月19日に倉吉で病没し、後継ぎなしとされて里見家は滅亡した。しかし側室には何人かの男子がいたようで、その一人が利輝(1614生~1644没)である。安房の地で育ったといわれ、観音堂裏の墓地に「西来院殿樹山宗柏居士」という供養塔が子孫によって建立されている。

(11) 里見義孝遺髪塔

 里見利輝供養塔の左隣は、そのひ孫である里見義孝の遺髪塔。利輝の孫義旭が間部氏に仕官し、その子義孝は越前国鯖江藩(福井県鯖江市)間部氏の江戸家老を務めた。義孝は先祖顕彰のために家の歴史を調べ歩いた人で、その孫義豪が義孝の五十七回忌にゆかりの延命寺に遺髪を埋めこの塔を建てた。

(12) 廻国供養塔

 別所の可七という人が法華経を書き写して、六十六部として全国の霊場を巡礼して歩き、無事帰国したお礼に奉納した供養塔。正徳4年(1714)に建てられた。

(13) 里見氏歴代の墓

(13) 里見氏歴代の墓

 天文の内乱で殺害され後期里見氏の家祖とされた里見実堯、里見の全盛期を築いた義堯・義弘父子三人の墓所とされる。里見氏塋域と彫られた石垣の中には宝篋印塔8基が並んでいるが、多くは積み替えられており元来何基があったのかは不明である。なお土地の古老の話では、むかしこの墓所は現在地よりも北にあったという。

(14) 板石塔婆(いたいしとうば)

(14) 板石塔婆(いたいしとうば)

 板碑は安房地方には少なく貴重で県の文化財に指定されている。武蔵型の板碑で、上半部には弥陀三尊の種子(梵字)が蓮弁の上に刻まれ、下半部には大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)の偈(げ)と正安3年(1301)辛丑卯月21日の年号がある。里見とは関係なく、鎌倉時代の武士のものである。

(15) 歴代住職墓域

(15) 歴代住職墓域

 歴代住職の墓域には延命寺の開山で永禄元年に没した吉州梵貞和尚の墓があり、戦国時代当時のものであることが確認されている。


<作成:ふるさと講座受講生
石井祐輔・加藤弘信・川崎一・川名美恵子・
神作雅子・中村祐・長谷川悦子・渡辺重雄>
監修 館山市立博物館