莫越山(なこしやま)神社の概要
(南房総市宮下27)
南房総市宮下(旧丸山町)にあります。古い神社や神名を記した『延喜式(えんぎしき)』(927年完成)に出ている安房国6座のうち小社4座のひとつとされ、祭神は手置帆負命(たおきほおいのみこと)と彦狭知命(ひこさしりのみこと)。社伝では、その昔天富命(あめのとみのみこと)が阿波の忌部(いんべ)氏を率いて安房の布良(めら)に上陸して開拓をはじめた時、これに従っていた工人の小民命(こたみのみこと)と御道命(おみちのみこと)の願いにより、その祖神2柱を祀ったのが始まりとされています。この二祖神は武具(盾)・祭具・建築の工匠として知られる神で、沓見(くつみ)の莫越山神社と同じ由緒をもっています。祭神が工匠の守護神とされることから建築職人からの信仰があり、江戸時代末期に江戸を中心に相次いで結成されるようになった大工・左官などが組織する講(祖神講(そしんこう))の信仰を集めました。この神社からは北側にある渡度(とど)山が、奈良県の巨勢(こせ)山に似て円錐形の秀麗な形(神奈備山(かんなびやま))に見えることから、古代にはこの山をご神体山に、南麓の遙拝所として造営されたものと思われます。伝承によれば往古境内は広大であり、神殿は壮麗でしたが、中世の時代に激しい変遷を経て荒廃したそうです。周辺には現在も神社に関係する地名として、禰宜沢(ねぎさわ)、忌部屋敷(いんべやしき)等の地名が数多く残されています。また古代の祭祀遺跡が周辺に点在する事から見ても、古くからの信仰がある神社だということがわかります。戦国時代には宮下村惣大社と称していました。南房総市の指定文化財として、鎌倉時代末の御神像2躯(く)と天正19年(1591)に里見義康が発した朱印状があります。例祭は10月10日、6月30日には祖神祭が行われます。
(1) 社号標
高さ1.8mの白い御影石に「勅願所延喜式内・莫越山神社・正二位伯爵萬里小路通房謹書」と刻まれている。万里小路通房(までのこうじみちふさ)は明治天皇の侍従を務めた公家伯爵で、明治20年代から昭和初期まで北条町に住み、安房地方の近代化に貢献した人である。
(2) 永夜燈 <市指定文化財>
弘化2年(1845)、地元宮下村の領主であった武州忍(おし)藩主(埼玉県)の松平下総守が、奥方の病気平癒を祈願して奉納した。高さ3.1mの一対の石灯籠で、中台(ちゅうだい)四面には麒麟(きりん)・鳳凰(ほうおう)、竿(さお)には龍、基壇の格狭間(こうざま)の四面には唐獅子が浮き彫りされ、精巧な彫刻が施された石灯籠である。石工は江戸の福島市五郎。
(3) 常夜灯
地元宮下区の農家三幣介治郎が国内各所を巡り、全国の古寺院神社に参拝し、無事帰ってこられたことを記念して、大正10年(1921)8月、高さ約3.6mの石灯籠を奉納した。
(4) 二の鳥居
狛犬の前に置かれた鳥居。石材は御影石と思われる。風化が進み表面が劣化しているが、左柱裏面に文字がかすかに見える。判読しがたいが「文化十三丙子年(1816)五月吉日」と見える。
(5) 狛犬(こまいぬ)
江戸橘町の石工伊賀屋定吉と地元宮下の渡辺久左衛門の倅(せがれ)が文政10年(1827)に一対の狛犬を奉納したとある。書き方を見ると定吉が久左衛門の倅であるのかもしれない。
(6) 忠魂碑
高さ8mに及ぶ巨大な大理石碑で、表の文字は元帥(げんすい)川村景明の書。裏面には日露戦争で戦病死した地元丸村出身の3名の氏名が刻まれている。大正10年(1921)、丸村在郷軍人会が建立した。
(7) 永代護摩壇並道具寄進碑
本殿右側にある高さ1.2m程の自然石である。正面上部に「莫越山神社」と大きく彫ってあり、右側には「天保十三年(1842)壬寅二月」、左側には「永代護摩壇并道具寄進」とある。道具とは神社で使う什器類のことである。別当(べっとう)の白雲山高雲寺十三世に奉納された。本願主は当村組頭の高橋治部右衛門ら4名(各金二分寄進)で、ほかに寄進者は名主等60余名(各金一分寄進)に及び、奉納金額と名前が刻まれている。合計金額18両3分。
(8) 日露戦争記念碑
明治37年・38年(1904・1905)の日露戦役を祝勝した丸村の記念碑である。高さ4.3mの片麻岩で、表面に「元帥侯爵大山巌(いわお)書」と刻まれ、旧丸村からの従軍者86人・戦病死者4人の階級・氏名がある。明治41年(1908)に丸村恤兵(じゅっぺい)会が建立した。
(9) 祖神講再興碑
建築関係の職人や業者で作る祖神講(そしんこう)の創始年代は不明であるが、碑文からは18世紀後半から19世紀後半の江戸時代後期に、活発に活動していたことがわかる。明治初年の神仏分離令で廃絶を余儀なくされたが、明治42年(1909)に再興した。碑はその記念碑である。
(10) 三山霊碑
明治26年(1983)に建立された月山神社・出羽神社・湯殿山神社のいわゆる出羽三山碑。台座には明治32年・35年・44年(1899・1902・1911)にも登拝が行われ、参加した宮下の同行者の名前がそれぞれ刻まれている。三山信仰の盛んだったことがうかがえる。
(11) 手水鉢(ちょうずばち)
境内社の八幡宮に奉納されている。自然石に嘉永4年(1851)3月と刻まれている。
(12) 八幡宮
間口7尺・奥行1間半の木造で、瓦葺(かわらぶき)の社である。言伝えによれば、中世この地を支配した丸信俊の居城(同市本郷・安楽寺背後の城山)の鬼門除(きもんよ)けとして建立されたという。安政3年(1856)に再建されたときの棟札がある。
(13) 御神庫
建物全体をセメントで覆った神庫で、外壁の側面に「昭和十三年(1938)十月吉日・奉納神火岩波やす」とある。この人は宮下地区で「神火(じんが)」と呼ばれる屋号を持ち、代々莫越山神社の祭祀を司った家で、斎部(いんべ)氏の子孫といわれている。神社所蔵の天正19年(1591)「里見義康朱印状」にある岩波弾正(だんじょう)はこの家の先祖である。
(14) 石宮2基
右方は「熊野社」で、左方は「石神(いしがみ)社」である。元は集落の内にあった小社を移したものであるという。
○渡度山古代祭祀遺跡
千葉大学の神尾教授・森谷助教授らによる昭和43年・45年の調査で、神社周辺の東畑・六角堂・石神畑で古代祭祀(さいし)遺跡(7世紀頃)が確認された。祭祀に使われたとみられる土製の勾玉(まがたま)・丸玉・木葉文(このはもん)底土器などが発掘されている。これらの遺跡は莫越山神社のご神体である渡度山の南側に位置し、この神社が古代祭祀の流れをくむ古い神社であることを物語っている。
○莫越山神社周辺の伝承
渡度(とど)山周辺には忌部(いんべ)氏と関係の深い地名・伝承が数多く残っている。山頂の渡度神社は当社の奥の院であり、麓の高雲寺は別当寺であった。登山口にある筒井井戸(忌部井戸)はみそぎの場所、かつて登山道入口にあった鳥居松は御輿渡御(みこしとぎょ)の出発点、社務所裏の水田にある榊の島には石神(いしがみ)様(石棒)が祀られていた。
<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
井原茂幸・石井祐輔・川崎一・鈴木正・中村祐>
監修 館山市立博物館