真野寺<丸山>

真野寺 文化財マップ

真野寺(まのじ)の概要

(南房総市久保587)

 南房総市久保の真野にあり、一般には「真野の大黒」の通称で親しまれていますが、正式には「高倉山実相院真野寺」といいます。かつては南房総市府中の宝珠院の末寺だった真言宗の寺院です。関東で弘法大師ゆかりの寺を巡る関東八十八か所霊場の第57番札所であり、安房国札観音の第25番札所でもあります。境内裏山には四国八十八か所霊場にならった「真野寺新四国八十八ヶ所お砂踏霊場」が設けられています。寺伝によると、奈良時代の神亀2年(725)に、現在地より1kmほど東にある高倉山の山頂に行基が開いたとされ、鎌倉時代の建永元年(1206)、野火に遭って建物が全焼、翌年鎌倉北条氏の帰依によって現在地に再建されました。その後また元禄大地震によって倒壊しましたが、中興の祖「法印頼智」により再興されます。しかし関東大震災で再び倒壊し、現観音堂が昭和35年に再建されました。なお、里見氏からは40石、徳川将軍家からは43石の寺領が安堵され、時の権力者より庇護を受けてきています。本尊は寺伝では行基作としている木造の千手観音菩薩立像で、室町時代初期の作とされるお面をかぶり、御開帳のときも素顔を拝むことができないことから「覆面観音」と称されています。また観音堂内には鎌倉時代の「大黒天」があり、関東地方に残る古像としては最大級のものです。この大黒天は平安時代の貞観2年(860)、ここを訪れた慈覚大師が参籠中に朝日が昇るなか大黒天が現れ、それを再現したと伝えられていて「朝日開運大黒天」と呼ばれます。毎年2月6日に「大黒天福祭り」が行なわれ、近隣はもとより遠方からも多数の参拝者が訪れて賑わいを見せています。ほかに当地久保の住人たちの発願によって、建武2年(1335)に仏師上総法橋が造像した「二十八部衆立像」と「風神雷神像」があります。観音を信仰する人々を守る善神です。本尊はじめいずれも県の指定有形文化財になっています。鰐口は文化7年(1810)のものです。

(1) 六地蔵尊

(1) 六地蔵尊

 高さ108cmの六地蔵尊で、上下二段に3体ずつの地蔵尊が彫り出されている。基壇は近年の新しいもので、古い基壇は地蔵尊の後ろにある。最上段には梵字(ぼんじ)が書かれているが、風雨のためほとんど不明。像右側下段に享保5年(1720)、左側には11月18日とある。最下段には寄進者の名前が14人書かれている。判読不明があるものの、おつる等の名前が見え全員女性のようである。地蔵尊を寄進し、自らの苦しみを救ってもらおうとしたことが想像される。

(2) 石造阿弥陀如来坐像(ざぞう)

(2) 石造阿弥陀如来坐像(ざぞう)

 この阿弥陀像は近くの元寺領の山にあったものを、平成6年頃に移転したものである。文字はなく、制作年などはまったく不明である。高さ39cmの丸彫りの阿弥陀如来で、結跏趺坐(けっかふざ)している。石質は蛇紋岩で、像容の特徴から中世末のものと判断されている。手水石は地元真野で生まれ千倉に住んだ鈴木しげが奉納した。

(3) 手水石(ちょうずいし)

 観音堂の正面左側に置かれている。高さ41cm、横幅98cm、奥行き41cmの比較的大きいもの。裏には文政6年(1823)七月吉辰日の年号と、大きな文字で「高倉山宥厳代」と記されている。宥厳は当山第9世の和尚(天保6年=1835年2月入寂)である。

(4) 宝篋印塔(ほうきょういんとう)

 塔婆の一形式で、この名は本来内部に「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」を納めたことに由来する。中世以来江戸時代まで墓塔や供養塔として建てられるようになる。この塔は宗清禅定門、寛永7年(1630)10月11日とあり、里見氏の時代を生きた人物の墓塔である。中世五輪塔の火輪(笠石)が乗せられている。

(5) 金剛界(こんごうかい)大日如来塔

(5) 金剛界(こんごうかい)大日如来塔

 寛政12年(1800)12月8日、地元真野の政右衛門・市郎兵衛・四郎兵衛・喜三郎の4名が寄進した金剛界大日如来の石塔である。寄進者の名が刻まれた台座上の蛇紋岩の丸石に「●(バーン)」という梵字を刻んでおり、太陽の光照、宇宙創造の根本仏とされる金剛界大日如来を信仰したものである。大日如来は弘法大師の教えの根本となっている仏である。

(6) 高倉山真野寺中興碑(ちゅうこうひ)

(6) 高倉山真野寺中興碑(ちゅうこうひ)

 この碑は元禄地震で荒廃した堂宇の再建を記念し建立された石碑である。工事は宝暦6年(1756)の夏に時の住職頼智により起工され、落成は第二世宥寿のときであった。そのため現在では、頼智を真野寺の中興第一世としている。碑は高さ137cm・幅33cmの蛇紋岩製の角柱である。碑文には本尊・脇侍の由来、天台宗から真言宗に改宗した言い伝え、宝珠院との関係などの寺の縁起とこの事業を讃える文が、腰越村(現館山市腰越)の仁左衛門によって書かれ、中興住職・名主・寺役人の名などが刻まれている。

(7) 光明真言塔(こうみょうしんごんとう)

 この塔は三段の台座の上に乗る自然石(硬質砂岩)の表面に、線刻の蓮華座の上に径34cmの円を描き、その中に光明真言の呪文が梵字で刻まれている。この碑面はもともと台座の上に立っていたものである。光明真言は密教の聖句で、これを唱えれば、諸々の罪障が消え極楽往生できるといわれている。台座には願主久保村の光明真言講・十九夜講・念仏講の各講中や、村内の個人また大井村の人の名などもある。建立は文化15年(1818)4月8日で、石工由蔵(村名不明)の作とある。

(8) やぐら・地蔵菩薩立像(りゅうぞう)

(8) やぐら・地蔵菩薩立像(りゅうぞう)

 観音堂脇の左斜面に中世の供養施設であるやぐらがあり、中に石造地蔵菩薩立像が中世の宝篋印塔の一部とともに安置されている。嶺岡産の蛇紋岩を使って舟形に加工し、中央に地蔵像が半肉に彫り出されている。像高は30cm。その姿は僧形で、胸前をU字形にし、左手に宝珠、右手に錫杖を斜めに持ち、蓮華座の上に立っている。像の周囲に文字はないが、その作風から室町時代のものと推定されている。付属の線香立ては明治35年旧3月15日奉納、曦(あさい)町(南房総市千倉町)鈴木勘左衛門の名がある。

(9) 観音堂

(9) 観音堂

 真野寺の本尊である木造千手観音立像が安置される。行基菩薩の作と伝えられるが平安時代後期の作である。その左右には本尊の守護神として安置された木造二十八部衆がある。仏師上総法橋の手で造立された南北朝時代の像である。また外陣に安置される木造大黒天立像は鎌倉時代の作である。寺伝では慈覚大師が当寺に参籠中一刀三礼で彫ったとされている。この3件は県の指定文化財である。また四天王の一部と思われる木造天部立像も寺の守護神として安置されており、平安時代後期の作とされている。欄間には竜が刻まれており、波の伊八といわれた初代武志伊八郎信由作である。本尊は安房国札観音の巡礼でも知られており、34か所のうち第25番札所である。

(10) 歴代住職墓地

 時代による地域の社会生活や信仰のあり方の推移から墓石の変遷がうかがえて、まるで展示場のようである。元禄地震後に当寺を再興した頼智法印を中興第一世として、1・2・4・5・7・10~12・16~18世の墓が並ぶ。


<作成:ふるさと講座受講生
石井祐輔・川崎一・鈴木正・中村祐・吉村威紀・渡辺定夫>
監修 館山市立博物館