鏡忍寺<鴨川>

鏡忍寺の概要(鴨川市広場1413)

(鴨川市広場1413)

小松原山鏡忍寺(こまつばらきょうにんじ)といい、日蓮(にちれん)宗で本尊は大曼荼羅(まんだら)。日蓮聖人(にちれんしょうにん)の四大法難のひとつ「小松原法難(こまつばらほうなん)」の霊場です。 文永元年(1264)、この小松原の地で地頭東条景信(とうじょうかげのぶ)に襲撃され、弟子の鏡忍坊日暁(きょうにんぼうにちぎょう)と信者の天津(あまつ)城主工藤吉隆(くどうよしたか)が亡くなり、日蓮聖人も傷を負いました。聖人は法難17年後の弘安4年(1281)、二人の菩提を弔うため日隆(にちりゅう)上人(工藤吉隆の遺子)に命じてこの地に妙隆山鏡忍寺を建立し、日蓮聖人を開山として創建されました。また、飛び地境内として上人(しょうにん)塚(づか)があります。昭和になって、40世日長により整備がされました。千葉県指定文化財「富木殿御書」や鴨川市指定文化財の「降神槙」を始め打墨(うっつみ)(鴨川市)出身の彫刻師「波の伊八」の彫刻や、向唐門・木造釈迦如来坐像等があります。また、墓地には明治新藩花房藩西尾家の家臣の墓や、仁右衛門島当主平野仁右衛門家の墓、明治期の実業家で東条(鴨川市)出身の久保扶桑の墓などがあります。

(1)寺号碑

(1)寺号碑

交差点題目塔 昭和8年(1933)12月道路改修の際、40世日長(にっちょう)が世の中の平穏無事、全ての人の幸せを願って建立した題目塔。

(2)報恩塔・題目塔

2-1 法難六百五十年碑

2-1 法難六百五十年碑

東京小松原年澄会が寄進した。

2-2 七百遠忌塔

昭和56年、42世日闡(にっせん)の代一向題目衆建立。

2-3 六百五十遠忌塔

東条村野村敏子の寄進。建立時期不明。

2-4 五百遠忌塔

安永9年、27世日源(にちげん)の建立。

2-5 五百五十遠忌塔

文政5年、29世日晃(にっこう)の建立。

2-6 六百遠忌塔

明治29年、34世日道(にちどう)の建立。

(3)小松原法難霊蹟碑

(3)小松原法難霊蹟碑

「小松原法難霊蹟」の文字を刻んだ法難碑は、日蓮聖人生誕700年を記念して、東京墨田区本所界隈の人達が中心となる東京竪川御旗講(たてかわみはたこう)が、明治38年(1963)に建立。36世日讃(にっさん)が揮毫(きごう)。

(4)総門・仁王門

(4)総門・仁王門

総門(山門)は三間三戸(さんげんさんこ)様式の棟造(むねづく)り門。仁王(におう)門は十界曼荼羅を祀る2階部分を持ち、瓦屋根の下に長く飛び出た垂木、尾垂木(おたるき)等を持つ三間一戸様式の門。仁王像は昭和の名横綱双葉山(ふたばやま)をモデルにした金剛力士像で、竣工時には当人が潜(くぐ)り初めをした。両門及び石灯篭は、40世日長が手掛け、昭和17年(1942)竣工。

(5)手洗鉢 

(5)手洗鉢 

文化元年(1804)、28世日辧(にちべん)の代に奉納された。10数人が1分から2朱を寄付している。中には女性の名前も見られる。

(6)日清・日露戦争記念碑、忠死者霊墓(東条村) 

(6)日清・日露戦争記念碑、忠死者霊墓(東条村) 

6-1 日清戦争の従軍者、予備役等25名の名が記されている。 6-2 日露戦争の従軍者、予備役等97名の名が記されている。 いずれも、安房郡東条村恤兵会(じゅつぺいかい)が明治30年と40年に建立。 6-3 忠死者霊墓には、日清・日露戦争、日支事変、大東亜戦争の戦死者133名の名が記されている。恤兵会と遺族会が建立。

(7)降神槙(こうじんのまき)  昭和51年 (1976)鴨川市指定文化財

(7)降神槙(こうじんのまき)  昭和51年 (1976)鴨川市指定文化財

日蓮聖人の一行が法難の際、樹上に鬼子母神(きしもじん)が現れ、あやうく難をのがれたと伝えられる槙。品格のある枝のしだれる樹形をした銘木。推定千年から千三百年といわれる。

(8)三尊の墓

(8)三尊・四祖の墓

8-1

三尊は開祖の日蓮聖人・二祖の鏡忍坊日暁(にちぎょう)上人・三祖の妙隆院日玉(みょうりゅういんにちぎょく)上人(工藤吉隆)のこと。聖人は鏡忍坊をこの地に葬り、小松を植えて墓標とし菩提を弔ったのが祖師堂前にある現在の塚。17世日普(にちふ)の時、日蓮・日玉の碑と共に整備。

8-2

当寺創建の四祖日隆は工藤吉隆の遺子で墓は降神槙の後。

(9)祖師堂

(9)祖師堂

弘安4年(1281)日隆上人の創立。明和2年(1765)再建中に、地震におそわれ崩壊。明和6年(1769)8月の大嵐でも大破したが、明和9年(1772)に完成した。その再建費用捻出のため、明和8年(1771)に浅草本法寺(ほんぽうじ)において出開帳を行う。現在の建物は平成19年に再建された。外陣欄間を飾る彫刻と外面蟇股(かえるまた)は旧祖師堂(そしどう)のもので初代「波の伊八」武志伊八郎信由(たけしいはちろうのぶよし)の作。

(10)祖師堂大営繕碑

(10)祖師堂大営繕碑

明治45年(1912)36世日讃の代に、大修理が行われた記念碑。有志・商人(飲食店・小間物・金物・桶屋・植木)による寄付の様子が記録され、市場商人によって建てられた。

(11)法難堂

(11)法難堂

聖人は亡くなった鏡忍坊の墓標としてその場所に松を植えた。松は明治35年(1902)の台風で倒れたので、その木で聖人の像を刻み、法難の場所に建てられた堂に祀った。堂は平成23年に法難750年記念報恩のため改築。全国からの写経を納めている。

(12)鬼子母神堂

(12)鬼子母神堂

法華経信徒を擁護すると言われる鬼子母神を祀るお堂は、江戸時代末期の建立と云われる。向拝には龍などの彫刻があり、5代目伊八の「高石信月(いぶつき)」の銘がある。

(13)清正公(せいしょうこう)堂

(13)清正公(せいしょうこう)堂

加藤清正像を祀る清正公堂は江戸時代末期の建築。法華経に帰依した清正は、慈悲と武勇の将、治国の名君とされ、常人とは違う能力を持つ人とされることから、所願成就の神として清正信仰が広がり、日蓮宗寺院には清正像が置かれている。

(14)仏殿(本堂)・庫裏

(14)仏殿(本堂)・庫裏

仏殿と客殿は江戸時代の末期から明治初期、庫裏(くり)は昭和17年(1942)の建築と云われる。仏殿には「2代目伊八」高石信常(のぶつね)の作と云われる欄間彫刻がある。なお、明治維新時に花房(はなぶさ)藩知事、西尾隠岐守(にしおおきのかみ)が客殿を宿所として使用したという。

(15)三十番神(さんじゅうばんしん)堂

(15)三十番神(さんじゅうばんしん)堂

三十番神は1ヶ月30日の間、毎日交代で法華経の信者を守護する神様とされる。堂は昭和の初めに建てられた。

(16)歌碑・句碑

(16)歌碑・句碑

「雉(きじ)鳴くや背丈にそろふ小松原」という正岡子規の句碑の他に当地を訪れた人、当地出身者など6つの歌碑・句碑がある。

(17)唐門(からもん)  昭和53年 (1978)鴨川市指定文化財

(17)唐門(からもん)  昭和53年 (1978)鴨川市指定文化財

江戸時代初期から中期頃建立され、茅葺(かやぶき)の切妻造り・唐破風(はふ)を持つ向唐門という形式の門。この向唐門を朱雀門ともいう。

(18)甲斐塚

(18)甲斐塚

里見安房守(あわのかみ)の家臣で上総国(かずさのくに)に八千石を領した鈴木甲斐守重興(かいのかみしげおき)の墓。法諱は日鈴(にちれい)。享保3年(1718)に子孫鈴木左衛門重邦が建立。

(19)上人(しょうにん)塚

(19)上人(しょうにん)塚

西町字(あざ)上人塚にある。日蓮は、工藤吉隆の死を悼み日玉の法号をおくり、この地に葬ったと伝えられる。明和5年(1768)に23世日長が塚の上に碑を建てた。道路拡張により昔の約三分の一の大きさになっている。


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