宝珠院<三芳>

宝珠院<三芳>

宝珠院の概要

(南房総市府中687)

 南房総市府中にある新義真言宗の寺院で、正式には「金剛山神明坊神護寺宝珠院」といいます。現在は京都の智積院末ですが、明治27年(1894)までは京都醍醐寺の報恩院の末寺でした。本尊は地蔵菩薩で、創建は応永11年(1404)です。開山宥伝の父が深く仏教に帰依して、私財を投じて寺院を創り、宥海僧都を開基として招いて実乗院と称したのが始まりだと伝えています。その後宝珠院と改めました。里見氏からは寺領275石余を給され、徳川時代には203石余の寺領が安堵されています。江戸時代は安房国真言宗寺院の触頭(ふれがしら)としての地位にあり、国内284か寺の真言宗寺院を支配しました。また談林所として安房国真言宗唯一の学問所でもありました。境内には役院として林光院・徳蔵院・西光院・本覚院の子院があり、分担して事務を務めました。しかし大正12年(1923)の関東大震災により山内諸堂が倒壊し、寺宝の多くを失いましたが、現在でも県指定文化財の仏像や絵画・工芸3点、市指定文化財12点などを所蔵しています。

(1) 石造地蔵尊(参道)

(1) 石造地蔵尊(参道)

 半跏(はんか)の地蔵尊(総高280cm)で、台座には賽の河原の様子が彫られている。明治11年(1878)6月2日に頭陀(ずだ)宥智が発願主となって建立された。開眼導師は金剛宥性とある。宥性は房州長狭郡大山村出身で、京都醍醐寺の三宝院住職。明治5年(1872)、房州に地蔵菩薩の札所霊場108か所を開き、すべての寺へ御詠歌の額を奉納している。宝珠院は百八箇所地蔵の第一番で、本堂に額が掲げてある。御詠歌は「日は入りぬ月はいでざる世の中に 地蔵ひとりぞ夜を照らします」。

(2) 岡本左京亮(さきょうのすけ)頼元の逆修塔(ぎゃくしゅうとう)

(2) 岡本左京亮(さきょうのすけ)頼元の逆修塔(ぎゃくしゅうとう)

 里見義頼・義康に仕えた岡本左京亮頼元が生前に建てた塔。灰白色の碑で白墓と呼ばれている。妙法山蓮華寺(鴨川市花房?)別当の経蔵坊が頼元の逆修善根のために、慶長11年(1606)7月15日に建てた。頼元は天正16年,17年(1588,1589)頃岡本城に出火があった時の責任で出仕を停止させられたことがある。逆修とは生前にあらかじめ自分のために仏事を修して死後の冥福を祈ること。

(3) 石造地蔵尊(観音堂前)

(3) 石造地蔵尊(観音堂前)

 像高130cm。背面の銘によれば享保3年(1718)に建立され、寛政9年(1797)に再建されている。再建のときの石工は元名村の勘蔵と長蔵。さらに明治4年(1871)、第39世栄運のときに金剛宥性が発起人となって区内の閻魔堂下道から現在地に移転された。

(4) 宝篋印塔(ほうきょういんとう)

 塔婆の一形式で、中に宝篋印陀羅尼経を納めたもの。高さ450cm。第28世真亮が元文6年(1741)正月に建て、第37世栄運が万延元年(1860)に修理している。

(5) 石造地蔵尊(元林光院)

 高さ120cm。子院の林光院で元禄2年(1689)2月13日建立した。もと林光院にあったが、廃寺により観音堂前に移転された。

(6) 弘法大師忌年碑

 「●」と大きく書かれた梵字は、漢字に置き換えれば「阿」となる。万物の根源という意味があり、大日如来を表す。下に「弘法大師年忌碑」と書かれており、江戸後期から明治期の間に行なわれた大師の年忌の際に建てられたと考えられる。

(7) 歴代住職墓域

 観音堂南側に歴代住職の石塔が68基ある。正面の開基宥海・開山宥伝の墓を中心に、西側と中央三列に歴代住職の墓が配置されている。南側から東側は合併した子院住職などの墓が並べられて、新しく日当たりのよい墓地が造成されている。

(8) 観音堂

(8) 観音堂

 安房国札23番札所観音霊場で、木造十一面観音菩薩像を祀る。開山宥伝の母妙光尼が応永11年(1404)に子院の西光院本尊として安置したものといわれている。近年、この像は鎌倉時代の徳治2年(1307)に仏師定戒が制作したことがわかった。現在の堂は関東大震災で倒壊した仁王門の二階部分を用いて昭和8年に再建したものである。また入口にある「尼寺」の額は西光院が尼寺だったからだといわれている。ケヤキの御詠歌額は、享保15年(1730)に長狭郡北小町村(鴨川市)の佐生勘兵衛が奉納したもので、安房国札観音の寺々には同人の額がある。堂内には天正16年(1588)に里見義康が奉納した木造不動明王坐像も安置されている。

(9) 石灯篭

 上部が欠失しているが、文政13年(1830)に第34世隆瑜(波左間村生まれ、のち京都智積院第33世化主)が寄進した。

(10) 日清戦役従軍記念碑

 表には「故陸軍砲兵曹長勲八等平谷真良之碑」「陸軍中将従三位勲二等功三級男爵長谷川好道書」と刻まれている。九重村に生まれた真良は幼くして僧侶の修行をしたが、近衛砲兵に志願して日清戦争に参加、明治28年12月に弱冠27歳で病死した。その追悼碑である。長谷川好道は近衛師団長であり、部下を追悼して題字を揮毫した。略歴などの文章を作ったのは京都東寺の玉雅僧正である。

(11) 清瀧(せいりゅう)権現堂

(11) 清瀧(せいりゅう)権現堂

 真言宗で境内鎮護のために祀られる神である。むかし弘法大師が中国の青龍寺で修行して帰国する際、その船を護持して日本に渡来した「青龍」という女神で、准胝観音・如意輪観音の化身といわれている。日本では水篇をつけて「清瀧」と号している。現在はここに不動尊が祀られている。

(12) 地主権現(じぬしごんげん)

(12) 地主権現(じぬしごんげん)

 正面に「地主権現」と書かれた祠で、地元の言い伝えでは開山宥伝の母親の墓であるとされている。背面の碑文によれば、この祠は宝珠院の元祖宥伝上人の父母のためのものであるとしている。二人が資財や土地を寄付して寺をつくったのが宝珠院の始まりであることから、それを讃えて第27世敞海が享保6年(1721)に建立した。

(13) 閼伽井(あかい)

(13) 閼伽井(あかい)

 正面に閼伽井という額を掲げた水屋にあり、寺名に関する伝承をもつ井戸。永享年間のこと、開山宥伝が閼伽井の水を汲んだ際、水面に「宝珠」の二文字が現れたことから、実乗院を宝珠院に改めたという。震災前にはこの脇に身を清めるための浴室があった。

(14) 本堂

 昭和3年に再建された。玄関には山号の「金剛山」「小野末流信海」と刻まれた額が掲げられている。額の裏面には墨書があるといい、『安房志』によれば天和3年(1683)に第22世宥鑁がつくらせたことが書かれているという。小野末流とは醍醐寺の開祖理源大師が真言宗の小野流祖であることから、信海は醍醐寺に係る僧侶であることがわかる。この額は震災前には仁王門に掲げられていた。

(15) 築山の石宮

 旧本堂(大正の震災で倒壊)の北側にあった築山の上にある。方丈の脇にあった庭園の一部である。荒廃しているが、池もあり当初はだいぶ優雅な庭園であったと想像される。石宮の銘文によれば、幕末の慶応3年(1867)2月吉日に、金剛山(当寺)第37世栄運が祀ったことがわかる。何を祀ったかは不明であるという。


<作成:ふるさと講座受講生
石井祐輔・川崎一・鈴木正・中村祐・吉村威紀・渡辺定夫>
監修 館山市立博物館