高塚不動尊<千倉>

高塚不動尊<千倉>

高塚不動尊(たかつかふどうそん)と大聖院(だいしょういん)の概要

 南房総市千倉町大川にあり、真言宗智山派の妙高山大聖院といいます。不動尊の開基は奈良時代に東大寺の創建などに尽した華厳宗(けごんしゅう)の「良弁僧正(ろうべんそうじょう)」といわれています。良弁は母の菩提を弔うため諸国修業の旅に出掛け、途中安房の国の当地にお堂を設け、修業の日々を過ごしました。ある時大海龍王の擁護で魔障(ましょう)から逃れる事ができたため、不動明王の尊像を彫刻し堂内に祀りました。この像が本尊の「大聖不動明王」です。その後この像は一時行方不明になりましたが、嘉応元年(1169)、近くの浜で発見され地元民の協力で高塚山山頂にお堂を建立し安置することができました。また麓の大聖院の開山は長尾庄(ながおのしょう)の庄官であった「法月坊」です。山麓に庵を設け不動明王の再来を祈ったことが、大聖院の始まりとなりました。遠州秋葉(静岡県)出身の法月坊は、秋葉権現が不動明王の化身であるという老僧の教えに従い山頂に秋葉権現をお祀りしました。そこに塚を築いて祀ったことから高塚山と称するようになったといいます。大聖院は関東36不動霊場の33番札所です。

(1) 道しるべ「高塚不動道」

 七浦幼稚園の脇にある高さ80cm程の高塚不動への石の道しるべ。参道の修繕に貢献した大川出身の早川銀蔵が建立したもの。

(2) 前不動

 高さ1.5mの祠(ほこら)のなかに不動明王、左手には地蔵菩薩がある。昔、山頂の不動尊にお参りできない人のために地元有志が、ここに不動明王を安置したそうである。右手前の石に「文政9年(1826)・安政4年(1858) 三界万霊(さんがいばんれい) 大川村千田村一同」とあるので、この頃に建立されたのだろう。

(3) 山門

 高さ3.1mの石門。左の門柱には大聖院18世御子神(みこがみ)太範と七浦村長・総代、右の門柱には発起人、世話人と石工の名がある。明治36年の建立。

(4) 宝篋印塔(ほうきょういんとう)

 山門先左手の宝篋印塔は、明和2年(1765)大川村の名主宇山長兵衛が宇山家先祖の崇拝と同族親和を願って建立した。はじめ大川のうちの上野山にあったが、関東大震災で倒壊し、昭和5年(1930)に移転した。大川の宇山氏は新田里見氏の一族鳥山(とりやま)氏の末裔(まつえい)で、里見氏に仕えた。

(5) 御子神太範(みこがみたいはん)先生の墓

 本堂左手前にある五輪塔。正面の「当院十八世阿闍梨(あじゃり)太範」は、岩糸(南房総市旧丸山町)生まれで、明治33年(1900)に大聖院住職となった御子神太範。昭和5年(1930)に円蔵院住職となるまで地域の青年に学問を教えた。昭和10年67歳で没。翌年に子弟が恩師の徳を偲び建立した。

(6) 大聖院本堂

 寄棟(よせむね)造り向拝(ごはい92間の茅葺形(かやぶきがた)鋼板葺である。内陣欄間(らんま)には安永4年(1775)作の初代武志伊八郎信由(のぶよし)の彫刻がある。中央が「波と龍」、左右は「麒麟(きりん)」の三面(南房総市指定)。内陣左脇間には、昭和32年に九重の鈴木寿山が描いた「竹林の七賢人」と「牡丹」の欄間絵が掲げられている。

(7) 高塚不動堂

 本尊は大聖不動明王で、開基良弁僧正(ろうべんそうじょう)が刻んだと伝えられている。不動堂はもと高塚山の山頂にあったが、昭和初期に修理中の火事で一部が焼け、昭和36年に現在の場所に遷された。内部には元大蔵大臣水田三喜男の賽銭箱、高木省童画伯が高塚不動明王霊現の由来を描いた18枚の額、高塚山御詠歌の額などが奉納されている。

(8) 秋葉権現

 大聖院を開山した法月坊が、ふるさとの鎮守であった秋葉権現(あきばごんげん)を祀ったという。不動堂と一緒に山頂から下ろされた。

(9) 出羽三山碑

 境内墓地端の崖下にある防空壕の入口に建つ。高さ80cm。上部に雲に乗った大日如来を載せ、湯殿山を中心に月山と羽黒山を刻み、その下に3名の名前がある。宝暦12年(1762)のもの。

(10) 富士登山記念碑

 奥の院への参道途中にある。中央は明治20年(1887)、早川権右衛門を先達とした山大という浅間講社19名が建立した富士浅間神社の写し。右側は明治17年(1884)に大先達桑行仙山が富士御中道33度を達成した記念碑で、明治38年(1905)と昭和9年(1934)の御中道大願成就も後刻されている。左側は昭和4年(1929)、大先達清行眞山(早川鉄五郎)他同行者8名による富士登山記念碑である。御中道(おちゅうどう)とは富士山中腹を一周する御中道巡りのことで、富士登山3回以上の経験者に許された修行のひとつ。

(11) 伊勢琴平参拝記念碑

 伊勢神宮と四国の金比羅(こんぴら)様に参拝した記念碑で、鳥居の手前に大正10年(1921)に建てられた。発起人は団長栗原伊之助以下19名。石工は平舘(へだて)の加藤常次郎である。

(12) 鳥居

 奥の院への参道を示す高さ4.7m程の石造鳥居。宇山徳左衛門・宇山兵吾と13世住職日欽(にっきん)が願主として海の安全を祈願し、地元の若者たちが寛政11年(1799)に寄進した。

(13) 手水石

 奥の院風神雷神門の左手前にある。文化10年(1813)に6名の世話人をはじめ、23名の村人により奉納された。

(14) 修繕記念碑(大)

 風神雷神門手前の大きな碑で、高塚不動尊の修繕の経緯が書かれている。大正6年(1917)の台風で不動堂の屋根が壊れ、風神雷神門が倒れた。世話人が各地の信者から浄財を集め、区民の労役により大正12年7月に再建したが、9月の関東大震災でまたも被害を受け再度修繕された。このとき大川出身の早川銀蔵が私財を投じ、自ら工事を指揮して参道の石壁を積み、水屋・四阿(あずまや9を新築した。これら善業を後世に残すべく住職御子神太範と地元有力者の呼びかけで、大正13年(1924)9月に建立された記念碑である。 

(15) 修繕記念碑(小)

 小さなほうが風神・雷神像の修繕と石段工事の記念碑。明治44年(1911)正月に建てられたが、『千倉町史』によると明治43年8月に豪雨があったとしており、石工2名の他に塗師とあることから風雷神に彩色が必要なほどの被害がでたのであろう。

(16) 風神雷神門

 文政13年(1830)3月、長狭郡平塚村(鴨川市)の三木甚右衛門、古谷伊兵衛ほか3人の石工がノミを振ってこの石像を刻み、若者中が高塚不動尊に奉納した。台座には世話人として地元の植木忠右衛門のほか、14世住職盛侃(せいかん)・村役人・地元35名の人々の名と、近隣の村々の名が刻まれている。

(17) 石灯籠

 風雷門の先にあり、施主は江戸の日本橋本船(ほんふね9町とある。本船町は日本橋川北岸の日本橋魚河岸発祥の地で、多数の魚類関連問屋が集結し繁栄した中心地である。獲れた魚を送っていた縁で海陸交通の守り本尊である当不動尊に宝暦5年(1755)奉納したものだろう。

(18) 狛犬

 風雷門の先にある。「子獅子が親獅子に寄り添っている」姿で、彫りに厚みがあり台座を含め高さは2.2m程ある。17世住職小熊隆寳・世話人6名と信者136名に上る人々が、明治12年(1879)に奉納した。彫刻は北朝夷村(千倉)の初代後藤利兵衛橘義光である。

(19) 元不動堂(奥の院)と天水桶

 嘉応元年(1169)頃からこの地に不動尊が祀られてきたが、昭和初期の高塚山山頂の火災で不動堂は焼失した。その後仮堂を建てたが、昭和36年に麓に遷された。旧堂の天水桶は高さ1.2mで左右一対、それぞれ正面に「奉」「納」と刻まれている。左右に寄付者3名の名が刻まれ、大正13年9月に奉納された。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・鈴木以久枝・鈴木正・御子神康夫・吉村威紀>
監修 館山市立博物館