長安寺<鴨川>

長安寺の概要

長安寺 境内

(鴨川市宮山1597-1)

 鴨川市宮山字富川にあり、正式には「富川山龍雲院長安寺」といいます。曹洞宗で、かつては山梨県笛吹市一宮町にある広厳院という大刹の末寺でした。本尊は華厳三聖(けごんさんせい)で、広い境内地に大伽藍を有する寺院です。長安寺の創建については広厳院から受天英祐禅師を招いて、永正3年(1506)に三原城主正木時忠が開基したと伝える説や、永正2年里見義弘が開いたという説があります。しかし最近の研究成果によると、里見義弘が受天英祐禅師に帰依していたことから、天文9年(1540)に正木時茂に伽藍の完成を求めたということです。弘治2年(1556)には時茂が寺に袈裟を寄進しました。永禄4年(1561)4月に小田喜城主正木時茂が急逝すると長安寺を菩提寺とし、法名を長安院殿武山正文大居士としました。慶長年間には里見義康の母である御隠居様が正木時茂の娘であったことから、115石の寺領を与えられ、長狭地域の曹洞宗の中核寺院となりました。徳川家からも10石の朱印地を与えられています。本堂には伝正木時茂の木像や御隠居様の木像が祀られています。

(1) 葷酒塔(くんしゅとう)

(1) 葷酒塔(くんしゅとう)

 寺の入口にある。「禁制諸葷酒」「しょくんしゅをきんせいす」と読む。禅宗寺院の入口には「葷酒不許入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」の石碑をよく見かけるが、同じ意味である。修行の妨げになるので、葷(ニラ・ニンニクの類)を食したり、飲酒して寺に入ることを禁じた言葉である。裏面には享保13年(1728)に建てたとある。

(2) 建造物

(2) 建造物

 山門に掛かる「龍雲関」の額は当寺の院号からとったもの。周辺の大岩はノジュール(団塊)といい、嶺岡山系にある岩石である。山門の正面に本堂があり、その背後には開山堂が併設されている。右の建物は玄関と呼んでいるが、庫裏から本堂にあがるための通路を兼ねている。この建物の奥に丈六の間という住職控えの間がある。この右の建物が庫裏(くり)であり、いちばん右の建物は方丈という。現在建替え中である。

(3) 鐘楼堂

(3) 鐘楼堂

 現在の梵鐘は昭和36年(1961)の鋳造。また四十六世興隆住職の漢詩が「房総山色明、渓声響耳底、喚起第一義、独掌不浪鳴」と刻まれている。

(4) 毘沙門堂

(4) 毘沙門堂

 長狭七福神のうちの毘沙門天を祀ってある。七福神信仰は室町時代末期頃から信じられるようになった民間信仰で、一般に七福神は恵比寿・大黒・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋を指す。古代インドでは悪神だった毘沙門天だが、のちに財産を守る善の神となり仏教では仏法の守護神になった。長狭七福神巡りは平成17年1月1日の良き日からはじめられたもので、恵比寿は大山寺、大黒天は白滝不動教会、弁財天は方廣寺、福禄寿は安國寺、寿老人は真福寺、布袋は龍江寺に祀られている。

(5) 歴代住職の墓

(5) 歴代住職の墓

 本堂左手を裏山へと石段を上ると、歴代住職の石塔が43基ある。正面前列に14基、後列に最近の4基。向かって右側が奇数の歴代で13基、左側は偶数歴代で12基である。正面前列の中に開山受天英祐禅師の石塔があるが、戦国期と思われる頭部に尖りのない無縫塔(卵塔)数基のうちの何れかと思われる。この列には将軍徳川秀忠の帰依を受けたという十一世巨山泉嫡禅師の石塔もある。また右側奥には中世宝篋印塔の基礎石がひとつある。この頃は曹洞宗中本山として安房国僧録所となり、常時20人~30人の修行僧がいる修行寺だった。一段低い場所には資格があっても住職になれなかった準歴住の人たちの石塔が11基ある。

(6) 開基正木時茂の供養塔

(6) 開基正木時茂の供養塔

 本堂左手奥の墓域に、12段の石段を上りきった正面右側に近世の宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。高さ約180cmで、正面に「長安院殿武山正文大居士」と刻まれており、寺号が使われた法名である。この法名は永禄4年(1561)4月に没した正木時茂のものであり、寺の開基としての供養塔である。建立年月日と施主は刻まれていない。正木時茂は天文2年(1533)7月に稲村城で父と兄を里見義豊に討たれ、その跡を相続。翌年里見義堯とともに犬掛の戦いで義豊を滅ぼした。その後も義堯に従い長狭郡から東上総に侵入して小田喜を居城に、里見氏幕下の最有力武将として勇名を轟かせ、特に槍を得意として槍大膳と称された。

(7) 御隠居様の供養塔

(7) 御隠居様の供養塔

 (6)の左側に同じくらいの高さの石塔が並び、正面に「龍雲院殿桂窓久昌大姉」、右側面に「逝去 慶長十五庚戌暦五月十一日」、左側面に「造立 延宝六稔戊午九月十一日 従慶長 当六十九年」、裏面に「健塔主 現住扶盈叟」とある。この寺の院号でもある龍雲院殿とは、正木時茂の娘で里見義頼の室として義康を産み、慶長年間には御隠居様として里見家で影の権力をもった人とされている。慶長年間には3069石の知行地をもち、家中で三番目の石高だった。慶長15年(1610)に没して、この供養塔は69年忌の延宝6年(1678)に建てられた。

(8) 檀那たちの石塔群

(8) 檀那たちの石塔群

 開基正木時茂の供養塔の右側に、半分ほどの大きさの五輪塔がある。文字は「明室清鑑禅定尼」「十二月八日」とあるので、高野山妙音院の過去帳に「慶長10年(1605)12月8日」没で、「正木大膳御簾中」とある二代目正木時茂の室であることがわかる。ご隠居様は二代目時茂の母である。また御隠居様の供養塔の左側にある聖観世音を刻んだ墓塔には、「開基龍雲院殿御局」「観室妙智大姉」とあり、ご隠居様の御局(おつぼね)として奥向きを取り仕切った女性であることがわかる。江戸屋敷に詰める永沼甚四郎の母という人で、寛永20年(1643)に没している。その一段下にも正木氏ゆかりの人たちと考えられる墓塔が並んでおり、「永禄三天庚申四月廿六日」「渕峯存龍禅定門」という五輪塔もある。

(9) 鎮守堂

(9) 鎮守堂

 山門の反対側、渓流にかかる龍雲橋を渡り石段を登ると、寺の守り神を祀る”鎮守堂”がある。祭神は豊玉姫命。社殿内の墨書銘札から明治40年(1907)に遷座式が行なわれていることがわかる。末寺として竜泉寺(鴨川市西町)・永明寺(同西町)・天沢寺(鴨川市北風原)・長福寺(鴨川市松尾寺)の名が記されており、長狭(鴨川市)一円の曹洞宗寺院を配下に治めていたことがわかる。


<作成:ふるさと講座受講生
井原茂幸・君塚滋堂・鈴木惠弘・
御子神康夫・吉野貞子・吉村威紀>
監修 館山市立博物館