里見家の女性たち

鎌倉公方(かまくらくぼう)足利氏と関東管領(かんとうかんれい)上杉氏の対立の中、鎌倉公方足利成氏(しげうじ)に仕えていた里見義実(よしざね)が15世紀中頃に上杉勢力下の白浜(南房総市)を制圧してから、10代目の忠義(ただよし)が伯耆国(ほうきのくに)倉吉(鳥取県)へ転封(てんぽう)され、元和(げんな)8年(1622)に没するまでの約170年間房総里見氏は続いた。里見氏に関わる女性たちの歴史や伝承も残され、政治に影響力を持った女性がいたという研究成果も出てきた。嫡流と庶流の政権交代となった天文(てんぶん)の内乱(1533~1534)での義豊(よしとよ)の妻たち/第2次国府台(こうのだい)合戦で夫を失い、菩提を弔う義堯(よしたか)の娘/義頼(よしより)に反乱を起こした正木憲時(のりとき)の弟・頼房(よりふさ)の妻になった義弘(よしひろ)の娘/義頼の妻(義康(よしやす)の母)で孫の忠義の時代には「御隠居様」と呼ばれた初代正木時茂の娘/忠義の妻で忠義の33回忌に高野山に供養塔を建てた江戸時代の老中(ろうじゅう)大久保忠隣(ただちか)の孫娘など、里見氏に関わる13人の里見家の女性を紹介する。

房総里見氏家系図
福生寺 義豊室墓

(1)義豊の妻

(鳥山時貞(とりやまときさだ)の娘)
福生寺・姫塚・南条城跡>

義豊の家臣で南条城主鳥山時貞の娘。天文の内乱で義豊が討ち死にした時に自害した。南条城(館山市)の北側にある石積みは姫塚(ひめづか)と呼ばれ、その墓所だという。彼女の霊を弔うために乳母(めのと)が尼僧となりそこに一溪寺(いっけいじ)を建てた。里見氏から2石の寺領を与えられ、その後寺は福生寺として古茂口(館山市)に移転したという。開基は「福生寺殿一溪妙周大姉(ふくしょうじでんいっけいみょうしゅうだいし)」とされ、歴代住職の墓域にある大きな房州石の五輪塔は、義豊の妻の墓と伝えられる。姫塚から移されたのかもしれない。

(2)義豊の妻「倉女(くらじょ)」

(小倉定光(おぐらさだみつ)の娘)

※一般公開は行っていません。

義豊の妻・倉(くら)は倉女と通称される側室。南房総市和田五十蔵(ごじゅうくら)の小倉家には、倉女の墓といわれる供養塔がある。同家に伝わる『黒滝哀史(あいし)』では、天文3年(1534)の滝田城(南房総市下滝田)落城の際、義豊の子を身籠っていた倉女が、兄の定綱(さだつな)に連れられて五十蔵へ逃れ、男児を出産した。文太丸(ぶんたまる)と名付け、義豊の命令通り定綱の実子と言いふらして養育したという。倉女は産後に病死したと伝えられている。

(3)高田(たかだ)姫と梅田(うめだ)姫(双子)

高田寺・妙蓮寺跡>

二子区に里見家双子の娘の話が伝わっている。安養寺(館山市二子)裏山のさらに北側にあった「二子塚」は、高田姫の塚とか双子の塚と伝わっている。「里見髙田姫和讃(さとみたかだひめわさん)」では、高田姫は17才の時に19才の夫と死別したと唄っている。高田姫供養のため建立された高田寺(館山市安東)の谷奥には、姫の墓と伝わる五輪塔がある。位牌には「高田寺殿花室妙香大姉(こうでんじでんかしつみょうこうだいし)」「天文五年(1536)」没とある。梅田姫は、妙長寺(みょうちょうじ)(館山市二子)南にあった妙蓮寺(みょうれんじ)の開基と伝えられてる。高田姫と梅田姫の名から里見家ゆかりの双子の姫と想像されている。

種林寺跡 種姫之碑

(4)義堯の娘「種姫(たねひめ)」

(正木大太郎(まさきだいたろう)の妻)
<宝林寺・種林寺>

夫の正木大太郎は永禄7年(1564)の国府台合戦で戦死したという。種姫は22歳で出家し、その年、上総国朝生原(あそうばら)(市原市)に宝林寺(ほうりんじ)を建て亡き夫を弔った。数年後、白浜に種林寺(しゅりんじ)を建てたといい、里見氏から寺領15石を与えられた。現在は廃寺となり、地元の人たちが顕彰碑を建てている。晩年、宝林寺に帰り天正17年(1589)48才で没した。同寺では「ふさ姫」と呼び「宝林寺殿慶州妙安大禅定尼(ほうりんじでんけいしゅうみょうあんだいぜんじょうに)」の位牌と供養塔がある。

琵琶首館跡

(5)義弘の妻

(足利晴氏(あしかがはるうじ)の娘)
<琵琶首館・長泉寺>

義弘の後室。古河公方(こがくぼう)足利晴氏の娘で、梅王丸(うめおうまる)の母。「久栄(きゅうえい)」という印文と大黒天像を配した朱印を使用し、独自の権限を持っていた。元亀4年(1573)の朱印状では、長泉寺(ちょうせんじ)(南房総市富浦町原岡)に対し、乳母(めのと)に与えた土地の管理を命じている。梅王丸が義頼との家督争いに敗れた後、彼女は養老川に囲まれた琵琶首館(びわくびやかた)(市原市田淵)に幽閉され、天正11年(1583)に没したという。

興禅寺 青岳尼墓

(6)義弘の妻「青岳尼」

(足利義明(あしかがよしあき)の娘)
興禅寺・泉慶院跡>

小弓公方(おゆみくぼう)足利義明の娘で、義弘の前室。一族が天文7年(1538)の国府台合戦で戦死し、里見家に保護された。鎌倉尼五山筆頭(かまくらあまごさんひっとう)の太平寺住職となったが、後に還俗して義弘の妻になった。開基である興禅寺(こうぜんじ)(南房総市富浦町原岡)境内の供養塔には、「智光院殿洪嶽梵長大姉(ちこういんでんこうごくぼんちょうだいし)」と天正4年(1576)の没年がある。慶長年間(1596~1615)の寺領56石余。泉慶院(せんけいいん)跡(館山市上真倉)にも、法名・没年が記載された供養塔がある。この寺は梅王丸を開山に青岳尼が開基し、160石余の破格の寺領が与えられていた。

心巌寺 正木石見守夫妻墓

(7)義弘の娘

(正木頼房の妻)
<心巌寺>

「天秀院殿長譽壽慶大姉(てんしゅういんでんちょうよじゅけいだいし)」は義弘の娘で、義頼の姉妹である。小田喜(おだき)の正木憲時(のりとき)が天正8年(1580)に義頼に反乱したとき、憲時の弟・頼房(道俊(どうしゅん))は金山城(鴨川市)を守備したが、落城後は義頼に従い、後に壽慶(じゅけい)を妻にした。壽慶山心巌寺(鴨川市貝渚)には、夫妻の供養塔(左が壽慶)があり、壽慶を義弘の長女と刻んでいる。壽慶は慶長10年(1605)、道俊は慶長16年(1611)に没している。

源慶院 佐与姫墓

(8)義弘の娘「佐与姫(さよひめ)」

<源慶院>

源慶院(げんけいいん)(館山市安布里)の境内の右高台に、佐与姫の供養塔がある。姫の追福のために建立された。「源慶院殿一法貞心大姉(げんけいいんでんいっぽうていしんだいし)」「天正七年(1579)」没と刻まれている。同寺の創建は義弘で、開基は佐与姫とされ、本尊の地蔵菩薩の胎内(たいない)に姫の持仏(じぶつ)があると伝えられている。

海禅寺

(9)義頼の妻「鶴姫」

(北条氏政(ほうじょううじまさ)の娘)
<海禅寺>

天正5年(1577)に義弘は北条氏政と和議を結び、氏政の娘を義頼の正室に迎えた。鶴姫は、相模から持参した「十一面観音立像」を、海上通行の安全を祈って岡本城観音山にお祀りした。鶴姫が亡くなり岡本城も廃城となった後、像が「相模に帰りたい」と海を荒らすため、地元の人が海の見えない海禅寺(かいぜんじ)(南房総市富浦町豊岡)に安置したという。天正7年(1579)没、法名「龍寿院殿秀山芳林大姉(りゅうじゅいんでんしゅうざんほうりんだいし)」。

長安寺 隠居様墓

(10)義頼の妻「御隠居様」

(初代正木時茂の娘)
<長安寺>

鶴姫が嫁す前の義頼の妻で、義康の母である。孫の忠義の時代には「御隠居様」と呼ばれ、里見御一門衆で3番目に多い知行高だった。小田喜正木家の菩提寺である冨川山(ふせんざん)龍雲院長安寺(鴨川市宮山)の中興開基で、同寺は里見氏より115石の寺領を与えられた。慶長15年(1610)に没した御隠居様「龍雲院殿桂窓久昌大姉(りゅううんいんでんけいそうきゅうしょうだいし)」の供養塔が、延宝6年(1678)に建てられている。他にも開基初代時茂の宝篋印塔(ほうきょういんとう)や御隠居様御局(おつぼね)の墓、2代目時茂(義康の弟)の妻の五輪塔と宝篋印塔がある。

真楽院

(11)義頼の娘

(正木某の妻)
<真楽院>

義頼の娘が正木某に嫁ぎ15才で初産の時、伯母の嫁ぎ先・東条家の医師戸倉玄安(とくらげんあん)が調薬を行ない、光厳寺(南房総市富浦町青木)の禅妙(ぜんみょう)が祈願した安産札と腹帯を与えられ無事に出産したと伝わる。真楽院(館山市上真倉)は玄安が安産守護の三神を勧請(かんじょう)して禅妙が開いた寺である。

高野山奥の院 里見忠義供養塔(複製)

(12)忠義の妻「東丸様(ひがしまるさま)」

(大久保忠隣の孫娘)
<高野山>

徳川幕府の有力者で小田原城主大久保忠隣の孫娘。徳川家康の長女亀姫の孫でもある。夫・忠義は慶長19年(1614)倉吉(鳥取県)に国替(くにがえ)を言い渡され、元和8年(1622)この世を去った。彼女は弟・大久保忠職(ただもと)のもとへ身を寄せ、岐阜・明石・唐津の転封先ごとに、忠義の菩提を弔う寺院を建立した。唐津で東丸様と呼ばれていた頃の、忠義33回忌にあたる承応3年(1654)には、高野山奥の院にも供養塔を建立している。その翌年里見家の再興を願いながら56才で没した。法名は「桃源院殿仙應妙寿大姉(とうげんいんでんせんのうみょうじゅだいし)」。墓は唐津の大久保家の墓地にある。その7回忌の万治4年(1661)に、忠職が高野山の忠義父娘とならべて供養塔を建立。博物館に忠義塔の複製がある。

西郷 姫宮様

(13)姫宮様(ひめみやさま)

館山市正木の西郷(にしごう)集落の田んぼの畔(あぜ)に、いくつかの中世の石塔がまとまって祀られている。五輪塔や宝篋印塔の一部で、地元では里見氏の姫を葬ったものと伝えられ、姫宮様とよばれている。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・殿岡崇浩
R4.7.7

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