源慶院(げんけいいん)の概要
(館山市安布里647)
館山市安布里(あぶり)にある曹洞宗の寺院で、山号は安布里山。本尊は延命地蔵菩薩。里見義弘の長女といわれる佐与姫が開基とされ、天正7年(1579)に亡くなった姫の追福のために里見義弘の帰依によって創建されたと伝えられています。本尊の胎内には姫の守本尊が納められているそうです。慶長年間には里見氏から安布里村と北条村で25石余の寺領を与えられ、その後徳川家からは15石を与えられて保護されました。元禄地震から60年ほどのちに仮本堂があった古屋敷というところから現在地に移転したと伝えられています。また昭和3年に隣接していた末寺の長楽寺が岐阜県へ移転したのにともない檀家を引き継いだことから、山号を安龍山から現在の安布里山に変えています。また安房国百八地蔵参りの104番札所で、聖観音菩薩は辰年開帳の安房郡札三十三観音の12番札所でもあります。
(1)安布里山源慶院再建記念碑
源慶院の由来を記したもので、天正年間に里見義弘の娘によって創建されたことがわかる。その後元禄大地震、関東大震災など幾多の変遷を経て、昭和7年(1932)に檀徒を中心に本堂・庫裏を再建して、昭和12年に完成したことを述べている。とくに再建の功徳を一切あまねく皆に及ぼすことを祈念して、この石塔が建てられたものであると記されている。
(2)一字一石大乗法華塔
これは仏や使者への供養を目的に、法華経を一個の小石に一文字づつ書いて埋納した上に建てた石塔である。手間がかかるので強く功徳が信じられた。大乗というのは他者救済を重視し多くの人々を悟りに導くことをいう。享保年間(1716~1736)に当寺八世応海が石書した法華経を埋めた場所の上に、元治元年(1864)になって時の住職泰雲のとき、渡辺半右衛門・吉田作右衛門を中心に、当地区の曹洞宗寺院6か寺や檀信徒の協力でこの塔が建立された。石工は楠見の田原長左衛門である。
(3)日露戦役戦没将士の墓
海軍二等水兵石井清次郎の墓。明治14年(1881)に安布里村に生まれ、34年に志願して呉鎮守府海兵団に入営、明治37年(1904)2月に日露戦役に出征して、中国で三度旅順攻撃に参加した。不幸にも病にかかり舞鶴に戻ったが、6月に病死してしまう。24歳。明治39年にこの碑が建立された。
(4)小池敏学の墓
宝暦12年(1762)生まれで、静岡県藤枝市にあった田中藩の柔術・棒術の師範。文政4年(1821)に没し、藤枝の源昌寺に葬られた。明治元年に田中藩が安房長尾に入封したとき子孫が北条へ移住し、明治19年(1886)に小池房右衛門が先祖の墓とともに供養塔として建立した。敏学は門人141人にも及ぶといい、小池家の中興とされた人物なのだろう。
(5)林栄之助の墓
元松平能登守家臣林栄之助という人の墓がある。能登守は美濃国岩村藩(岐阜県恵那市)3万石の藩主で、松平乗命(のりとし)という。明治になって栄之助は東京で士族となり、明治10年(1877)に北条へ転居してきたが、目的や経歴は不明である。明治24年に58歳で亡くなっている。
(6)忍(おし)藩士家族の墓
幕末に幕府の命令によって、異国船が出没する東京湾の海岸警備を命じられた武州忍藩(埼玉県行田市)から藩士たちが館山周辺へやって来た。ここの墓地には派遣期間中の1842年から1853年までの間に亡くなった藩士の家族の墓が2基ある。後藤伍八重郷の母と内藤弥学昌幹の伯父で、ともに嘉永3年(1850)に没している。藩士が家族をともなって赴任していたことがわかる。
(7)佐与姫(さよひめ)の墓
里見義弘の長女で当寺の開基とされる佐与姫の供養塔である。住職墓域の奥にある。どのような経歴の女性かは不明だが、法名は源慶院殿一法貞心大姉といい、天正7年(1579)5月15日没とされている。
(8)山門
嘉永6年(1853)に建立された四脚門である。当初は萱葺きの屋根だったが、大正12年(1923)の関東大震災で損壊して瓦に直し、近年の改修で銅葺きになった。彫刻には鶏と竹を裏表に彫り分けた欄間や兎の作品があるが、作者は不明。
(9)延命地蔵菩薩
像高60cmの石造地蔵菩薩立像で、台座の正面に「七難即滅・厄除地蔵」、右側面に「一字一石書写延命地蔵菩薩経」と刻まれている。地蔵菩薩経を石に書き写してここに埋納したのだろう。この地蔵菩薩は、昭和7年(1932)9月吉日に本堂再建入仏記念として建立された。
(10)白山妙理大権現
岩窟の中に、昭和のはじめに造立された白山様と呼ばれる石宮があり、「白山大権現」を祀っている。曹洞宗大本山の永平寺(福井県)ではこの神を鎮守としており、曹洞宗寺院ではこれに倣って白山大権現を守護神として祀ることが多い。白山は岐阜・石川両県にまたがる日本三大霊山のひとつで、毎年の山開きには永平寺の修行僧が「白山妙理大権現・仏法大統領」を唱えながら登山する。
(11)白土坑
参道にある延命地蔵尊の手前に、昭和初期まで白土(はくど)を採掘していたという洞穴がある。地元ではここを白土坑と呼んでいた。白土は食器洗いとか歯磨き粉などに利用された生活必需品で、明治時代から昭和25年頃まで盛んに採掘されていた。房州砂と呼ばれるほど安房地方の有力な産業のひとつだった。真倉から豊房、山本にかけて多い。現在は福井県鯖江市でメガネフレームの研磨に使われている。
高田寺(こうでんじ)の概要
(館山市安東684)
館山市安東にある曹洞宗の寺。山号を福智山といい、虚空蔵菩薩が本尊です。里見氏の娘といわれる高田姫が開基の里見家ゆかりの寺です。位牌には高田寺殿花室妙香大姉、天文5年(1536)6月3日没とあり、菩提のために寺が建てられたと書かれています。誰の娘であるのかはわかりませんが、稲村城に近く、天文の内乱から間もない天文5年に亡くなっていることから、前期里見氏の関係者なのでしょうが、慶長期には里見氏から寺領を与えられていませんでした。この周辺には双子に関する話が伝えられています。戦国の頃は双子が嫌われて、双子だった高田姫が殺されて二子区にあった二子塚に葬られたという話や、高田寺へ預けられたという話、ひとりは寺に預けられ高田姫は里見家で育てられたという話などです。「高田姫和讃」では高田姫が17歳のときに19歳の夫に死に別れて出家したと伝えています。同じ谷の奥が寺の旧地で、昭和46年に現在地へ移転しました。跡地には高田姫の墓と伝えられる五輪塔が残されています。
<作成:ふるさと講座受講生
石井祐輔・加藤弘信・川崎一・川名美恵子・神作雅子・中村祐・長谷川悦子>
監修 館山市立博物館