福生寺(ふくしょうじ)の概要
(館山市古茂口367)
館山市古茂口字戸賀にあり、山号を飯富山といいます。曹洞宗の寺で延命寺の末寺。本尊は聖観世音菩薩です。寺伝によると、南北朝時代の西国の大大名として知られる大内義弘の子孫という無々遠公和尚が、薩摩国から来て開山になったということです。永正15年(1518)頃のことであろうといわれています。その後、延命寺の萬截是朔(まんせつぜさく)の弟子北州門渚(ほくしゅうもんしょ)が中興開山となりました。開基は里見義豊の妻である福生寺殿一溪妙周大姉とされ、この寺の歴代住職の供養塔に並んで一溪妙周の供養塔と伝えられる五輪塔が建立されています。「天文の内乱(1533~1534)」で夫の里見義豊が討ち死にしたことを知ったこの女性は、17歳で自害してしまったそうです。遺体は南条城跡の北側山麓に葬られ、福生寺の前身とされる一溪寺が建てられたといわれます。そこは寺屋敷と呼ばれ、いまは姫塚が残されているだけです。慶長11年・15年(1606・1610)の里見家分限帳では、寺屋敷がある南条の地において高2石の土地を与えられていました。また徳川家からも同様の安堵がありました。
(1)山門
四脚門の木鼻の獅子や欄間の竹梅に鷹、松竹に鶴の彫り物は、安房地方の彫刻師として有名な後藤義光が、明治28年(1895)81歳のときに制作した作品である。義光は文化12年に南房総市千倉町北朝夷に生まれ、明治35年(1902)旧3月15日(新4月22日)に88歳で没した。墓は同所寺庭の西養寺にある。23歳のときに江戸日本橋の後藤流彫物師後藤恒俊の門人になり、年季を終えると京都・鎌倉で修行を重ねて帰郷し、安房地方で活躍した。竜が得意で、市内の鶴谷八幡宮・鋸南の妙本寺・千倉の日枝神社・出野尾の小網寺などにある作品は力作である。
(2)六地蔵
本堂前の六地蔵は天明2年(1782)から寛政3年(1791)に亡くなった方の供養がなされたもので、そのなかの1体に「施主大内■」とある。これは寺伝にある大内義弘の子孫という無々遠公和尚と関係のある家で建立したということだろうか。江戸時代に名主を務めた大内家があった。六地蔵は比丘形で流れのある裳裾が珍しく、それぞれ持ち物が異なる。昭和末頃に婦人部有志の浄財で現状に整備されたが、年中行事として8月24日には法会を行い篤い地蔵信仰が守られている。また葬列の先頭を「ロクドウ(六道)」と称して6本のロウソクを立て、先端を守るという意味の風習がある。
(3)大日如来像供養塔
安西家の墓地の中には智拳印(ちけんいん)を結んだ大日如来の石像を乗せた供養塔がある。大日如来は普(あまね)く照らすという意味の慈悲の仏とされている。台座の銘文から、村内の安西清左衛門が両親の供養のために、般若心経一万巻を読誦し、西国・坂東・秩父の各三十三観音の功徳を願って建立した供養塔だろうと思われる。父は慶応元年(1865)、母は文久2年(1862)に亡くなっている。
(4)石井弥五右衛門盛次夫妻の墓
江戸時代前期の様式をもつ2基の宝篋印塔は、水戸光圀の大日本史編纂事業に加わり安房先賢偉人のひとりに挙げられる石井三朶花(さんだか)の祖父母の墓である。盛次は元亀2年(1571)生まれとされ、里見義堯のひ孫にあたる里見家の家臣。慶長19年(1614)の里見家没落の際、幕府代官から手代頭に採用され、里見氏転封後の安房国の民政処理にあたった。その尽力によって房州の寺社98か所の領地が没落前とほぼ同様に保障されたという。右側の墓石が盛次で、法名の脇に万治3年(1660)10月3日とある。左側が夫人である。
(5)一溪妙周大姉の五輪塔
本堂左側から墓地を登ると、左手の最高所に歴代住職の墓が一列に並んでいる。右端の開山と二世と思われる卵塔に挟まれて、高さ約1.6m、最下部の地輪が54cm角もある、風化が進んでいるが大きな房州石の五輪塔がある。この石塔は福生寺の開基とされる里見義豊の妻の墓と伝えられている。この五輪塔は安房地域でも規模の大きいものである。なお上からふたつ目には宝篋印塔の笠石が加えられている。
(6)南条城跡
寺から西へ1km離れた館山市南条の字由義(ゆうぎ)にある標高50mの山を城山(じょうやま)という。これが南条城で、鳥山(とりやま)城とも呼ばれる。南麓には八幡神社がある。本丸の南側は急斜面で、北と西・東には曲輪が取り巻いている。東へ続く尾根には大きな堀切が現存し、本丸の西下には「首洗い井戸」と伝えられる城井戸がある。里見一族で、前期里見氏に仕えた鳥山時明・時正・時貞三代の居城だったが、里見義豊が天文の内乱で討ち死にしたとき、時貞も一緒に戦死したという。その後廃城になっていたが、正木大膳亮時堯(義頼の次男弥九郎で二代目時茂として正木大膳家を継いだ人物のこと)が鳥山城を修復して、城主になったと伝えられている。 <なお、鳥山(とりやま)城は従来烏山(うやま)城とされていたが、明治時代に誤記されたことが判明したので、今回鳥山城として紹介した。城主の名前についても同様である。>
(7)姫塚
福生寺の裏山の丘陵から連なって、さらに西方へ延びた丘陵の端に、かつて鳥山氏の南条城があったと伝えられる。その北側の山すそ(館山市南条字東山居)にある溜池の奥に「姫塚」はひっそりとある。この塚は里見義豊の家臣であった南条城主、鳥山左衛門大夫時貞の娘で、里見義豊の妻であった女性の墓だという。夫の義豊が天文3年(1534)4月6日に戦死したことを知るとその日に自害、その霊を弔うために乳母が尼僧となり、姫塚のある谷に一溪寺を建てたという。その後寺は福生寺として移転したということらしい。残されている塚は石積みの台座のみだが、福生寺の五輪塔の最下部の大きさとこの台座の寸法を見ると、バランスのとれた組み合わせであり、五輪塔はここから福生寺に移されたのではないだろうか。
<作成:ふるさと講座受講生
井原茂幸・君塚滋堂・鈴木惠弘・御子神康夫・吉野貞子・吉村威紀>
監修 館山市立博物館