相濱神社

相濱神社 文化財マップ

相濱神社の概要

(館山市相浜42)

相濱神社は明治10年(1877)まで感満寺という不動明王を本尊とする修験道の寺であった。開基は役行者(えんのぎょうじゃ)と言われ、文武3年(699)のこととされる。明治5年(1872)の修験道廃止をうけ、明治10年(1877)の感満寺廃名不動尊改号の届け出によって寺は消滅した。感満寺の修験藤森家が神官に転じて感満寺は旧称を用いた波除(なみよけ)神社となり、さらに大正5年(1916)に村内の梶取(かじとり)神社を合祀して現在の相濱神社となった。感満寺はもと相浜字(あざ)古屋敷(現在の蓮壽院周辺)にあったとされるが、元禄大地震の大津波により本堂や仁王門など全てが流出したため、翌宝永元年(1704)に、現在の二斗田の地に移転し今日に至っている。祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)と宇豆彦命(うずひこのみこと)である。

(1)玉垣(たまがき)

大正天皇の喪が明けた昭和3年(1928)に、旧皇室典範に基づき昭和天皇の即位の礼や大嘗祭(だいじょうさい)などが京都で行われた。一連の儀式を御大礼(御大典)という。全国各地で奉祝行事が行われ、相濱神社では御大典記念として昭和3年11月に玉垣が建設された。

(2)燈籠(とうろう)

文政13年(1830)に建立された「常夜灯」である。相浜を中心に119名の名前が記されている。江戸芝金杉や深川で魚問屋や干鰯(ほしか)問屋を営んでいた5名の名前もみられ、漁業に関する房州と江戸との関わりを示す資料である。

(3)手水鉢(ちょうずばち)

奥行63cm、幅141cm、高さ58cmの小松石で出来ている。右側面には弘化5年(1848)正月に奉納されたこと、左側面には奉納者として相浜の若者中と与兵衛・兵右衛門など計12名の名がある。石工は楠見の田原長左衛門である。

(4)力石

縦長の扁平形をしており、中央の石は32貫目(約120kg)とあり、地元相浜の天野作右衛門が奉納している。その右にある石は30貫目(約112.5kg)で、「平治」の名があるが地名はない。左端にも文字はわからないが力石がある。ほかに博物館本館の屋外展示場に、50貫目(約187.5kg)で江戸深川の不動丸船頭西宮伝七が奉納した力石が借用で展示されている。いずれも奉納年は不明。

(5)出羽三山(でわさんざん)碑

大日如来を表すアーンクと「湯殿山・羽黒山・月山」の号が表面にあり、裏面に「御裏三宝大荒神」と記してある。相浜村安田三右衛門他4名と布良村の吉田嘉右衛門が、文政3年(1820)に奉納した出羽三山碑。御裏三宝大荒神とは出羽三山の守護神である。

(6)基壇(きだん)

43cm角で高さ24cm。上面に丸みを帯びた窪みがある石に、奉納者4名の名と「寛政九年(1797)巳六月吉日」が刻まれている石と、幅42.5cm、奥行17cm、高さ22.5cmで、世話人・村中・安田三右衛門の名がある石がある。何かの基壇ではないかと思われる。

(7)石垣竣工記念碑

神社と道路の境は椎(しい)の大木が茂る石垣であったが、昭和55年(1980)にコンクリートに作り替えられた。それを記念した「石垣竣工記念」の石板が内側の壁に付けられている。椎の大木が、平成15年(2003)に支障木として伐採された。

(8)出羽三山碑(土手の上)

卵形の石の正面中央に湯殿(ゆどの)山、左に羽黒山(はぐろさん)、右に月山(がっさん)と刻まれた出羽三山碑。高さは約76cm。相浜の伊勢屋忠兵衛・村田源次・長谷川久兵衛と滝口村大作場(おおさば)の岡野宗左衛門が、天保11年(1840)8月に奉納したもの。

(9)庚申塔(こうしんとう)(土手の上)

高さ約70cmの青面金剛(しょうめんこんごう)を模(かたど)った庚申塔。青面金剛の腕は左右3本ずつあり、左手は輪宝(りんぽう)及び弓と、ショケラといわれる女人の髪の毛をつかんでいる。右手は剣と三叉(さんさ)槍及び矢を持つ。上部に太陽と月、足元の左右に雄鶏と雌鶏、最下段に三猿が描かれている。奉納者は不明だが、文政5年(1822)に奉納されている。

(10)社殿

昭和29年(1954)2月20日付の宗教法人規則書類には、奥殿・幣殿7坪半(間口3間、奥行4間)の入母屋(いりもや)造りで、拝殿・幣殿(畳敷き)・本殿(幣殿より3段高い)の構造とある。建物は関東大震災によって倒壊した後、現在の社殿が周辺の神社仏閣から資材を集めて再建されたと言われている。社殿前の平屋根も拝殿で、祭礼ではその前に波除丸がつけられ御霊(みたま)移しが行われる。

(11)波除丸(なみよけまる)宝庫

祭礼は感満寺本尊のお不動様の縁日である3月28日に行われていたが、現在は3月最後の土日に行っている。宝庫には旧波除神社の名をつけたお船「波除丸」が納められている。鯨船を模した小早船の形式で漆の朱塗り。水押(みよし)が長く緋毛氈(ひもうせん)が掛けてある。車輪は木製で6個付いており、方向を変えたり止めたりするときには、てこ棒を使う。船に飾られている玉獅子には「国分産後藤喜三郎橘義信」の銘があり、彫刻は明治34年(1901)の製作である。祭礼では簾(すだれ)の前に裃(かみしも)姿の子供が殿様として乗り、屋根の上では女装や仮装をした男衆が御囃子(おはやし)や御船歌に合わせて踊るが、現在曳船(ひきふね)は行っていない。御船の道具箱は文化15年(1818)のものが残されている。

(12)外宮跡

波除丸宝庫裏の空地にある、幅144cm、高さ47cm、奥行97cmのコンクリート基礎は社殿の跡である。社殿があった頃は漁師がよくお供えをしていたという。漁業に関わりのある神様が祀られていたようだ。社殿は昭和時代末の台風で倒壊してしまい、再建されずに今日に至っている。近くに柏崎浦の熊沢氏が享和2年(1802)に奉納した手水鉢と、社殿前から移設された慶応元年(1865)の狛犬がある。

(13)稲荷神社

本殿左奥に多くのお稲荷様が祀られている。近所の人の話では町内でお祀りできなくなったり、家の跡を継ぐ人がいなくなったお稲荷様を、相濱神社の神主にお願いし、ここに集めてお祀りしているそうである。現在も稲荷講が行われている。

(14)楫取(かじとり)神社

楫取神社の旧境内地で、現在ある社殿は1980年代に再建されたもの。かつての祭神は宇豆彦命(うずひこのみこと)で、忌部(いんべ)一族の天富命(あめのとみのみこと)に従って阿波から安房へ渡って、主に漁業を指導した神である。楫取は航海の舵を取る「かじとり」に由来するという言い伝えがあり、江戸時代の書上帳には「鎮守香取(かんどり)大明神」とある。地元の人は楫取神社を「かじとりじんじゃ」とか「みょうじんさま」と呼んでいる。江戸時代には1月15日に湯立(ゆたて)神事が行われていた。

1 楫取神社旧跡碑

合祀された翌年の大正6年(1917)に建てられた「楫取神社旧蹟」の碑が境内入り口にある。

2 石垣寄付記念碑

東京日本橋の魚河岸32軒・地元の区長・漁業取締の役員・氏子らが、明治32年(1899)に石垣を寄付した記念碑である。石垣の石は合祀に伴い、大正5,6年頃(1916,1917)に漁業組合が相浜の弁天様下に建てた氷蔵に使用された。

3 力石

文久2年(1862)に奉納された40貫目(約150kg)の力石である。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
刑部昭一、鈴木正、殿岡崇浩、中屋勝義、山杉博子
2023.3.20 作

監修:館山市立博物館
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