伝説の山里・神余(かなまり)

伝説の山里・神余{かなまり}
神余 文化財マップ

神余地区の概要

館山市豊房地区の南部に位置し、東は豊房地区畑、西は神戸地区、南は南房総市白浜町に隣接している。神余の地名は、平安時代の『和名類聚抄』に「加牟乃安万(末)利」と記され、神戸郷を割いて余戸をおいたので「神余」になったと伝えられている(古代日本の律令制では、里(郷)は50戸ごとに編成された)。永享年間(1429~1441)頃まで安房郡を領有していた神余氏は、家臣山下定兼の反乱により滅び、安房郡を山下郡と呼んでいたことがあり、『南総里見八犬伝』の題材にもなっている。
明治22年(1889)、12村が合併して豊房村が誕生し、昭和29年(1954)、豊房村は館山市に編入された。神余区は、上・大倉・加藤・平田・久所・上台・畑中・山下の8組に分かれ、神余地区の中央を北から南に流れる巴川を挟んで、西に山下城跡、東には神余城跡があり、隣接する神余小学校は神余氏の居館跡と伝えられている。

(1)御腹やぐら

(1)御腹やぐら

 畑地区に近い小字地蔵畑の斜面にある(間口3m高さ2m奥行3m)。内部に宝篋印塔がある。神余景貞は家臣山下定兼の謀反に遭い、自性坊の介錯によりこの地で自害したと伝えられる。宝篋印塔の基礎部分に「宗菴」「禅定門」とあるが、景貞の法名は香山受心大居士である。

(2)地蔵畑の地蔵

(2)地蔵畑の地蔵

 御腹やぐらのある北側約100m山道の山林の中に位置する。石地蔵が2基あるので地蔵畑と言われるようになった。坐像と立像で頭部欠損。立像の裏面に「神余村地蔵畑往古ヨリ本尊ハ元禄十六癸未年十一月廿二之夜大地震ニテ岩屋崩木像故別当自性院エ奉遷則」とある。

(3)自性院

(3)自性院

 真言宗の寺院。本尊は不動明王。室町時代、神余の豪族神余景貞が家臣の山下定兼の反逆にあい、地蔵畑の岩屋にて自刃したとされる。ここに自性坊が供養のため自性院を創建したと伝えられ、元禄の大地震で岩屋が倒壊したため現在地に移ったとされる。平安時代中頃の阿弥陀如来座像と阿弥陀如来立像から発見された鎌倉時代の水晶製六角五輪塔形舎利塔は、市指定文化財。

(4)日吉神社

(4)日吉神社

 旧村社で祭神は大山咋命。神余地区の鎮守。7月19・20日の例祭で奉納されるかっこ舞は、平成8年(1996)に館山市無形民俗文化財に指定。手水石は天保9年(1838)、名主金丸氏や和頴氏などが寄進した。石工は白浜滝口の亀吉。寛保2年(1742)の石燈篭や力石がある。江戸時代は安楽院が別当をしていた。

(5)医王山安楽院跡

(5)医王山安楽院跡

 神余茂詮開基の真言宗寺跡。開山は文安5年(1448)、頼智法印(神余景貞の第2実弟)、本尊は薬師如来。大正の震災で潰れ、昭和3年(1928)に自性院に合併された。金丸氏の子孫で名主を勤めた伊佐家や、医師や学者を出した和頴家などの墓がある。

(6)塩井戸

(6)塩井戸

 旅の僧に貧乏のため塩気のない小豆粥を出したところ、僧は川に杖をさして塩を湧き出させたという。その僧が弘法大師だという言い伝えがあり、千葉県有形民俗文化財に指定。井戸の手前には明治時代の弘法大師像が残る。手水石は明治19年(1886)。上流の石積みアーチ式の橋は明治44年(1911)に架設。

(7)智恩寺

(7)智恩寺

 曹洞宗、本尊は地蔵菩薩。開基は里見義康で慶長8年(1603)建立。寺領は10石。開山は斧山良?(ふさんりょうとつ)。慶長18年(1613)、寺領寄進の里見忠義の古文書や、初代武志伊八郎の彫刻(龍や鶴)が残る。天保13年(1841)奉納の手水石には里見氏の家紋がある。石工は館山楠見の田原長左衛門。境内に「大乗妙典一字一石書写」の石塔がある。白浜川下浦の二人の女性が石に経文を一字ずつ書上げ、享保13年(1728)に神余の念仏講中と埋納した。

(8)無量山来迎寺跡

 塩井戸の奇跡を起こした弘法大師をもう一度お迎えしたいと、大同4年(809)、来迎三尊(阿弥陀、観音、勢至)を安置して開山したと伝えられる。塩井戸の管理も行っていたが、大正12年(1923)の震災で倒壊し自性院に合併。本尊阿弥陀如来の頭部からは水晶の舎利塔が発見された。墓地が無く、入口に寺留守居番の墓石があるのみ。隣に回国巡拝塔、馬頭観音がある。寺跡は岩壁に囲まれた修験の山寺の様相が残る。

(9)福聚山松野尾寺跡

 応永26年(1419)、金丸26代景貞3回忌供養で、旧居城の一角に文殊菩薩と阿弥陀如来を祀る念仏堂を建てたとされる。文安5年(1448)、福寿山満福寺と改め、城跡山頂にある薬師如来を守護させた。後に松野尾寺となり、本尊文殊菩薩、観音堂には聖観音を祀り、安房国札観音28番札所となる。大正の震災で倒壊したが庫裏は仮校舎として使用。昭和3年(1928)自性院に合併された。今は墓地と弘法堂跡が残っている。

(10)大井戸

(10)大井戸

 大高尾大井戸。集会所脇には、古来から清泉が湧き出ており、飲料水として近年まで使用されてきた。左手の壁面にある記念碑には、生活様式の変遷に伴い改修が重ねられたが、非常用水の必要性から大正14年(1925)に、地区の共有地として買収し大改修したとある。援助者、世話人、石工、共有者等の11名が記されている。

(11)道標

(11)道標

 集会所入り口に子安地蔵の道標がある。文化2年(1805)8月「右くにふだみち」と記されている。元の場所は定かではないが、集会所に入る道路入り口付近にあったと伝えられる。安房国札第28番が松野尾寺(9)、第29番が市内神戸地区犬石の金蓮院である。

(12)金明様

 大高尾字揚橋に石宮一基がある。伝承によると、源頼朝の家臣が石橋山の合戦で深手を負い、頼朝に仕えることができないと自刃し、頼朝は、伊豆国を望める小山に埋葬して金明社と名付けたという。白浜方面の漁師は金明様に願をかけると海難を免れ、大漁になると信じられたため、かつては参拝者が多く茶店がたつほどであった。

(13)逸郷の滝

 巴川上流の字市郷にある。直径約12mの滝壷を備えた景観は房総のナイアガラと表現されるように見事である。ここにはかって不動明王を祀ったお堂があったが、このお堂が洪水に押し流され相浜に流れ着いたのが感満寺であるという伝承もある。感満寺は、現在の相浜神社の前身。

(14)神余六地蔵

(14)神余六地蔵

 上の台、久所橋近くの地蔵(f)に「神余六地蔵第六番終」とあり、周辺に他の地蔵はないため、辻や街道、牛馬墓地、寺院入口など神余各地に点在する以下の地蔵が「神余六地蔵」と推定される。

(a) 久所堰面地蔵 (画像のもの)

(b) 神余畑入口

(C) 山下墓地入口

(d) 松野尾寺入口

(e) 来迎寺入口(安永9年(1780))

(f) 上の台、久所橋近く(享保元年(1716))


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
佐藤博明・佐藤靖子・鈴木以久枝・鈴木惠弘・中屋勝義>
監修 館山市立博物館