国分寺

国分寺 文化財マップ

日色山国分寺(こくぶんじ)の概要

(館山市国分959)

左:国分寺 山門の扁額 右:国分寺 本堂(薬師堂)

館山市国分字天神前にある真言宗の寺院で、奈良時代の天平13年(741)に聖武天皇が全国に建立した国分寺のひとつです。国分寺建立の詔勅の時、安房国はまだ上総国の一部だったので、安房国分寺が置かれるのは独立した天平宝字元年(757)以降のことになります。寺伝では天平15年に国司の太木綿麿(ふとぎゆうまろ)が寺地を寄進し、行基作の薬師仏を本尊に堂宇を建立、日色御堂と称したのをはじまりとしています。今は東口十二薬師巡礼の第一番札所です。山門をくぐって正面の薬師堂が本堂で、向拝には国分と山本の講中で奉納した享保18年(1733)の鰐口があり、堂内には元禄16年(1703)再興の本尊薬師如来坐像、聖武天皇肖像画、歴代住職の位碑などが安置され、寛政2年(1790)の孝子伴直家主(とものあたいやかぬし)礼拝図の絵馬が掲げられています。左手の一段高い土盛は旧国分寺の金堂跡で、境内には旧国分寺の礎石もあります。ほかに南北朝期の五輪塔や孝子家主の記念碑、江戸時代に北条藩領の万石騒動で犠牲となった安房三義民を顕彰する石碑が多くみられます。

(1)孝子伴直家主(こうしとものあたいやかぬし)之里碑

(1)孝子伴直家主(こうしとものあたいやかぬし)之里碑

 伴直家主は平安時代の初期の人で、『続日本後紀』に記されている「孝子(親孝行者として顕彰された人)」。承和3年(836)に、親の死後も墓前で孝行を続けた徳行が朝廷から表彰された安房の人で、国分村の出身とされることから、明治45年(1912)に時の館野村長や元安房郡長らによって、国分を家主の里として顕彰するために建てられた。

(2)水準点

 一等水準点として大字国分字天神前958番2に所在する。2000年度の再測量により標高19.4148mとされている。水準点とは水準測量に用いる際に標高の基準となる点のことである。

(3)三義民の墓

(3)三義民の墓

 正徳元年(1711)、北条藩屋代家の財政建て直しのため、用人川井藤左衛門が行った増税に対し、領内27か村の農民の一団が減免を訴えて、幕府老中へ直訴した事件があった(万石騒動)。川井は薗村名主五左衛門・湊村名主角左衛門・国分村名主長次郎の3名を代表として処刑。しかし直訴が受け入れられて、川井は翌年斬首され、屋代家は領地没収となった。犠牲となった名主は「三義民」と称されて供養塔が建てられ、命日には今も多くの人々が集まり盛んな供養祭が行われている。萱野の処刑場跡とともに館山市の指定史跡である。

(4)安房郡三名主の碑

 三義民200回忌の明治43年(1910)、館野村の篤志家らが27か村に呼びかけて建立した。撰文と篆額は枢密顧問官で文学博士の細川潤次郎である。彼は明治27年(1894)に公務出張中に当地で「万石騒動」の歴史を知り、後にこれを公刊した。碑文には万石騒動の顛末と、感銘を受けた思いが漢詩で綴られている。書は茨城県出身の諸井春畦。

(5)念仏講供養碑

 元禄9年(1696)、南無阿弥陀仏を唱える念仏講の人たちが建立した。中央に南無阿弥陀仏、その下に小さく念仏講衆とあるが、講員の名前は不鮮明。碑の左右両側に蓮の花の線刻が鮮明に残っている。

(6)本橋米吉君墓碑

 日露戦役で戦死した陸軍歩兵一等卒本橋米吉の墓。米吉は国分の人で、明治37年に征露の軍に従い、同年12月、旅順攻略戦のなかで清国松樹山にて名誉の戦死を遂げた。享年23歳。

(7)無縁墓地

 石造の地蔵尊・出羽三山碑2基・廻国供養塔などがある。地蔵菩薩立像は国分の地蔵講が寛政10年(1798)に立てたもの。同坐像は嘉永4年(1851)。三山碑は奥が文政10年(1828)、手前が文化6年(1809)のもの。廻国供養塔は寛政3年(1791)に地元の善蔵・松次郎が日本一周の旅を終えた記念に建てたもの。享保12年(1727)の大日如来もある。

(8)相川直治君墓碑

 千葉師範を出て在職4年で亡くなった山本小学校(現館野小学校)訓導の墓。明治33年(1900)没、享年22歳。篆額は郡長吉田謹爾、文は漢学者恩田利武で、安房郡書記鈴木周太郎の書。

(9)原田伝次君墓碑

 日露戦役で戦死した陸軍歩兵一等卒原田伝次の墓。明治38年(1905)3月の奉天会戦のとき、清国の盛京省田義屯で戦死。享年22歳。

(10)三義民飯田長次郎(国分村名主)の墓

(10)三義民飯田長次郎(国分村名主)の墓

 三義民の供養塔と別に地元の飯田長次郎の墓がある。戒名は貞信院剣室道霜居士。処刑の日、陣屋から縄もっこに乗せられた長次郎は、家の前で待っていた妻や子どもに見送られ、萱野の刑場に向かったという。正徳元年(1711)11月26日のことである。

(11)後藤喜三郎の墓

(11)後藤喜三郎の墓

 「国分の彫り物師」として親しまれる後藤喜三郎橘義信の墓。喜三郎は本名を行貝福松といい、嘉永2年(1849)国分に生まれた。安房を代表する彫刻師後藤義光の門人であり、兵三・利三郎・庄三郎とともに後藤の四天王といわれた。多作な人で館山市内にある明治・大正期の山車・屋台の多くは義信の作だという。大正15年(1926)没、77歳。後藤氏に関係する墓が薬師堂右手裏にもある。

(12)旧国分寺礎石

(12)旧国分寺礎石

 境内には径約60cmの旧国分寺の礎石と伝わるものが4個ある。うち1個は薬師堂前の枝垂れ柳の下、残り3個は日露戦没者墓(6)近くの立ち木の下にある。寺の西方、国道西側の畑から掘り出された。

(13)織原直之の寿蔵碑

(13)織原直之の寿蔵碑

 房州出身の儒者織原伴左衛門直之の功績を讃えた寿蔵碑で、86歳の文化14年(1817)建碑。朱子学者山崎闇斎の学統である野田剛斎の弟子間斎に江戸で朱子学を学び、国分村に戻って数百人に学問を授けている。建碑の2年後に没し、法名は操賢院大智恵観居士とある。

(14)石造地蔵菩薩立像

(14)石造地蔵菩薩立像

 山門左手前の墓域入口に南面して、総高150cmの地蔵菩薩立像がある。光背に阿弥陀三尊の梵字、念仏衆生摂取不捨の祈願文、元禄10年(1697)8月建立の記録、講衆19人の男女の名前が刻まれている。

(15)軍神西尾常三郎大佐の墓

 南側新墓地の中ほどにあり、約2mの白い標識が目印。三義民のひとり飯田長次郎の後裔で、日中戦争で金鵄勲章を受けた軍人。太平洋戦争中の昭和19年11月、陸軍特別攻撃隊富嶽隊の隊長としてフィリピン島沖で敵戦艦に特攻、戦死した。大佐に特進。享年29歳。

(16)手水石

 弘化4年(1847)に国分村中と隣村山本村から奉納された。

(17)万石騒動250年忌供養塔

 三義民と万石騒動関係者52名さらに一万石領内良民一同の霊を慰める塔として、昭和34年5月に建立された。裏面に万石騒動一揆神文誓書連判者名を列挙して偉大な先祖の冥福を祈念している。

(18)孝子家主(やかぬし)の碑

(18)孝子家主(やかぬし)の碑

 嘉永4年(1851)、安房屈指の石工武田石翁が、家主の両親の墓碑として建てた。碑下部には父母の塚に礼拝する孝子の像が描かれている。篆額は大納言日野資愛、書は江戸大護院の高僧道本憲壽、画と刻字は石翁。同様の碑が家主の墓とされる萱野の「孝子塚」にもある。

(19)五輪塔

(19)五輪塔

 南北朝時代(14世紀後半)のものとされ、完全な形のものでは市内で一番古い。高さ1m余の安山岩製で四方に梵字が刻まれている。五輪塔とは、下から方・円・三角・半月・宝珠の五輪を積み上げ、地・水・火・風・空という密教で説く宇宙の構成要素を表している。

(20)金堂(こんどう)跡

(20)金堂(こんどう)跡

 天平13年(741)に聖武天皇が国ごとに護国寺を創置したとき、他国に遅れて安房の国分寺が建立された。昭和51年から3か年にわたる発掘調査の結果、境内北側の竹林となっている一段高い土盛が旧国分寺の「基壇」として確認され、金堂跡と推定されている。また多量の古瓦や三彩の獣脚の破片が出土し、現在も瓦片を見ることがある。


<作成:ふるさと講座受講生
石井道子・岡田喜代太郎・加藤七午三・金久ひろみ・鈴木以久枝・鈴木巽・山口昌幸>
監修 館山市立博物館