高の島
(館山市館山1562)
元は海に浮かぶ島だったが、館山海軍航空隊基地の埋立て造成により、今のような陸続きの地形になった。
安房の表玄関である館山港を見下ろす高の島にある鷹之島弁財天は、平安時代に祀られたと伝えられ、昔から漁師や船乗りたちの信仰を集めている。歴史的には「高の島」と書くが、文学的に「鷹の島」と表現された文字が、現在では通用している。
(1)鳥居
神社の参道にあって神域入口を示す。これは昭和54年(1979)10月のもの。
(2)植樹記念碑
鷹之島弁天閣は、平安時代の嘉保年間、当時国守だった源親元によって祀られたが、長い間荒廃していたのを残念に思った館山湾沿岸の網主たちが、再び信仰を深めるために、大正10年(1921)、マテバシイ300本、杉50本を植えたことを記念して建てられた記念碑。この樹木は漁師にとって魚付林の役目を果たした。
(3)石燈籠
明治33年(1900)に建てられた。夜間の歩行安全を目的としたもの。
(4)波切不動尊手水石
神社や寺を参拝するとき身を清めるために置かれる。明治33年(1900)に奉納されたもので、裏側の銘文には、11人の盲人中によって奉納されたことが刻まれている。
(5)碇(いかり)
危険な航海において、漁師や船乗り達の間で「碇を下ろす」ことによって、無事にまた帰ってこられるようにと願う信仰でもあったのだろうか。脇にある「浮きで作られたカエルのような置物」も、無事に「かえる」ようにと作られたのだろうか。不思議な奉納物がある。
(6)波切不動尊
波切不動尊とは、航海の安全を祈る不動明王である。ここの不動様は戦前に洞窟の中に倒れているのを発見され、見つけた人が毎日お参りしたところ、戦争で命が助かったというエピソードがある。その後、昭和26年(1951)5月に現在の場所に移された。
(7)狛犬
神様を守護するもの。元々エジプトの神殿や墓、インドでは仏像の前に置かれたライオンが原形で、中国に渡って獅子となり、日本で狛犬に変化した。この狛犬は昭和11年当時に、館山海軍航空隊に所属していた海軍大尉の親族が奉納した。
(8)大正地震記念碑
関東大震災(大正12年(1923)9月1日M7.9)で大きな被害を受けた館山湾周辺の人々が、震災被害を永遠に人々の記憶に残すために、大正15年(1926)に建てた高さ4mの巨大な石碑。題字は貴族院議長で大震災善後会の会長を務めた徳川家達、撰文は千葉県知事の元田敏夫。
(9)戦没者慰霊碑
第二次世界大戦中、全国の高等工業学校専門学校及び大学理工系卒業後の若者達が、館山の洲ノ埼海軍航空隊に入隊した。海軍兵器整備予備生の教育訓練課程就業期間を卒業すると、任務地に赴くが、武運に恵まれることなく多くの若者が戦死した。平成2年に兵器整備予備学生の同志達がこの碑を建立した。89名の戦没者名が刻まれている。
(10)飛行機の彫刻がある手水石
側面に航空機の彫刻がなされているこの手水石に使われた石の由来にはこんな話がある。江戸初期、江戸城外堀の石垣用として海路24個の大石を積んで江戸に運ぶ途中の千石船が暴風に遭い、高の島の島陰に逃れたが、不幸にも大波に呑まれて沈没してしまった。昭和5年に館山海軍航空隊創設の際、海中から引き揚げられた。昭和10年奉納。
(11)狛犬
昭和32年(1957)に行われた大祭の時、市内に住むとある女性が納めた狛犬。
(12)玉垣(たまがき)
瑞垣(みずがき)ともいって、神聖な領域を区分するため、特に神社の周りに巡らせた垣根のことを言う。現在ある玉垣は、昭和34年(1959)5月に作られたもので、石柱面の文字は、当時の県議高橋祐二の協力で、柴田県知事が筆をふるっている。沼の栄洗寺住職藤田日志(昭和24年(1949)弁財天復興者の一人)を中心に、地元の漁師や茨城・伊豆・三重、遠くは宮城・土佐の漁師等からの寄進によって建てられた。海上の守り神として、地元だけでなく遠方からの信仰も受けていたことが伺える文化財である。
(13)岩舟
向かって左側の狛犬の所に石の船が置かれている。これは岩舟と呼ばれるもので、安房地方の漁業者の間では海上安全と大漁祈願の対象として信仰されるものである。
(14)鷹之島弁天閣
平安時代、安房守源親元がお寺を建てる土地を探していたところ、老翁が夢の中に現れ、「獅吼山が良いでしょう」と告げられた。後に親元が館山の柏崎を通った時、獅子の頭に似た岩を見て、夢で見た場所はここだ!と寺を建て、獅吼山視眼寺と名づけた。夢に出てきた老翁は宇賀神の神霊であったというので、御礼のために沖の島に宇賀明神、高の島に弁財天を祀ったというのが始まり。昭和初期に、高の島の一部が航空隊の用地となったために、参拝者の出入りが不便になり、昭和10年(1935)4月に北下台の公園に社殿を造営し遷座した。再び現在の高の島に戻って来たのは、終戦後の昭和24年(1949)5月15日のことである。その際、社殿向拝の龍の木鼻がつけられた。
(15)水産講習所(現:東京水産大学)高の島実験場跡
明治42年(1909)に建てられたが、昭和5年(1930)、旧海軍の基地造成のため小湊町に移転した。魚のふ化やプランクトンの研究がされていた農商務省の施設。一般の市民も気軽に見ることができた。
館山航空隊について
昭和2年(1927)、館山町字宮城・柏崎の海岸と、高の島・沖の島との間に海軍の航空隊が設置されることとなり、同年4月1日起工式をして、昭和5年(1930)完成に至る。その後保養地館山は、全国から空の勇士を志願した若者たちの常駐する軍都となった。
平成13年度博物館実習生制作
監修 館山市立博物館