北下台とは、城山の北側にある小高い丘一帯をさす呼び名です。江戸時代は家がありませんでしたが、明治・大正時代には「館山公園」という景勝地として知られていました。
北下庚申堂周辺エリア
(1)重田徳正記念碑
明治34年(1901)
庚申堂上の個人宅地内にある。成田山不動尊を信仰し、神栄講に属していた重田徳正は、この場所にお堂をたてて信仰を広めた。
(2)石造観音菩薩立像
北下地蔵尊庚申堂にある石造物のうちのひとつ。これらの石造物は、裏の個人宅地内に埋もれていたものを、10年ほど前に整備しなおした。
(3)三界万霊塔
正徳4年(1714)
同じく庚申堂の石造物のひとつ。人間だけでなく、生き物すべての霊を供養するための碑。
(4)百八十八番巡拝塔
文化11年(1814)
楠見集会所脇にある廻国供養塔。楠見浦の小髙清兵衛が、四国・西国・秩父・坂東の観音札所をすべて巡礼した記念に建てたもの。同じく楠見浦の小髙宗兵衛が嘉永6年(1853)に建てた廻国塔もある。
金比羅神社周辺エリア
(5)森田市之助碑
明治30年(1897)
日清戦争で戦死した館山町出身の森田市之助を追悼する碑。
(6)秋山辰五郎之碑
明治36年(1903)
日清戦争で戦死した海軍機関兵秋山辰五郎の碑。
(7)正木灯
大正5年(1916)
船形町長を務めた正木清一郎が、水産業の発展につくした父貞蔵の死を悼んで、晩年の隠居所があった北下台に建てた照明塔。残っているのはその基台の部分で、かつては木の柱が立ちアーク灯が灯っていた。題字を書いたのは有名な書家小野鵞堂。
(8)栗山君之碑
明治24年(1891)
山本高等小学校の訓導兼校長。25歳で没した。題字は千葉県知事の藤島正健による。
(9)金比羅神社手洗石
文化3年(1806)
館山仲町と大神宮村の人が奉納したもの。
(10)金比羅神社石灯籠
昭和5年(1930)
東京湾埋立株式会社の工夫たちが奉納。
(11)義勇碑
明治30年(1897)
台湾平定に参戦した14名の房州出身者の顕彰碑。
(12)日露戦役記念碑
明治39年(1906)
日露戦争に従軍した約100名の名前が刻まれている。館山町恤兵会が顕彰。
(13)青木為治墓碑銘
明治19年(1886)
神余出身。布良で教鞭をとっていたが21歳で没。篆額は元老院議官の柳原前光。撰文は旧長尾藩士の恩田城山。
(14)小御嶽碑
慶応2年(1866)
楠見、下町、仲町、長須賀などの富士講中が奉納したもの。城山の浅間神社は、戦時中ここに移されていた。この石碑ももとは城山の中腹にあった。
(15)やぐら
室町時代
岩壁を掘って作られた武士の墓。内部の壁面には五輪塔が浮き彫りにされ、納骨のための溝も見られる。
観音堂跡の墓地エリア
(16)館山観音御堂旧址碑
安房三十四観音第三十一番札所の観音堂があったところ。関東大震災後に仲町の長福寺に移された。
(17)金近虎之丞墓
明治21年(1888)
山口県士族の金近虎之丞は、転地療養に来た北下台に屋敷を構え、金虎亭という浴室尽の下宿を開いた。浴室は汐湯といい、湯銭をとって一般に開放された。
(18)堀口いさ・佐代子墓標
大正12年(1923)
日本の近代彫刻の原点を築いた彫刻家・長沼守敬(1857~1942)によるレリーフ。大正3年(1914)、館山町上須賀に移り住み(上須賀青年館前)、晩年を過ごした。これは、親しかった近所の夫人と孫娘が、関東大震災で亡くなったのを悼んで制作したもの。
(19)勝山調句碑
文化11年(1814)
勝山調(1762~1838)は沼出身の絵師で、神仏像や郷土の風俗などを数多く描いた。この碑は、片面に山調の句、もう片面に絵具皿丸という狂歌師による狂歌が刻まれているが、皿丸と山調は同一人物だともいう。
北側記念碑エリア
(20)関沢明清碑
明治33年(1900)
捕鯨や遠洋漁業などの水産業に功績を残した関沢明清の顕彰碑。かつてはここに、関沢が捕まえたという鯨の頭骨が置かれていた。関沢は水産伝習所(現東京水産大学)に勤務し、晩年館山に住んだ。
(21)坂東丸船員殉難碑
明治43年(1910)
千葉県水産試験場所属の坂東丸が銚子沖で遭難。11名が犠牲になった。
(22)順天丸遭難記念碑
明治36年(1903)
房総遠洋漁業株式会社の漁船順天丸が朝鮮海域で沈没し、22名が遭難した。楠見の石工・俵光石が刻んだ。
制作:平成8年博物館実習生
監修 館山市立博物館