来福寺

来福寺の概要

(館山市長須賀46)

来福寺

館山市長須賀にある真言宗のお寺で海富山医王院来福寺といいます。神亀2年(725)元聖(げんしょう)法印開基と伝えられています。墓域には大きなタブノキやクスノキなどがあり、また住職墓域や無縁墓地には室町期と思われる五輪塔の一部が見られます。本尊は境内のクスノキを使って彫られた薬師如来像です。薬師堂には室町中期とされている薬師如来像も安置され、地元では長須賀薬師と呼ばれています。安房国四十八薬師如来礼場の西口1番札所、安房郡札三十三観音霊場の第21番札所であり、また安房国八十八か所弘法大師霊場の第18番札所として多く人々の信仰を集めています。里見氏から真倉(さなぐら)村で高(たか)十二石の地を与えられ、徳川家からも同様に安堵(あんど)されました。また明治6年(1873)に小学校が置かれ(長須賀学校)、同23年(1890)北条尋常小学校に合併するまで続きました。

(1)手水鉢(ちょうずばち)

(1)手水鉢(ちょうずばち)

文久3年(1863)9月に法流六世(当院32世)宥承(ゆうじょう)の代に奉納された。世話人として往時の町の有力者、麹屋(こうじや)源平、上野主目(しゅめ)、池田屋金七、長屋源蔵など14人の名が刻されている。

(2)常夜灯

(2)常夜灯

万延元年(1860)9月の建立。作者は大坂炭屋町の石工で、宮崎県や神奈川県など全国的に活動した御影屋(みかげや)新三郎である。

(3)薬師堂

昭和47年(1972)の再建。向拝(ごはい)の木鼻(きばな)獅子は千倉町白子の仏師石井一良の作。堂内に安置されている薬師如来像は旧本尊。西口薬師の本開帳は寅年、半開帳(中開帳)は申年の10月である。

(4)本堂

(4)本堂

関東大震災で倒壊した後の仮本堂を、昭和28年(1953)に近くの上野医院の建材を譲り受けて再建した。向拝に安房郡札観音と安房八十八か所大師の御詠歌(ごえいか)が掲げられている。

(5)熊野大権現祠

石宮は明治42年(1909)の34世加藤學傳のとき、長須賀の島野源之助他8人が発起世話人として建立した。石工は長須賀の吉田亀吉。昭和58年(1983)の客殿建設により現地へ転移した。

(6)馬頭観音

長須賀村の清兵衛が施主となり、弘化3年(1846)に馬の死を悼みたてた供養碑。本来は人間救済の観音菩薩であるが、交通が不便だった時代の旅の安全を祈る意味ももっていた。

(7)庚申塔

(7)庚申塔

寛政元年(1789)の建立。主尊に青面金剛(しょうめんこんごう)を彫り、「庚申待(こうしんまち)」を18回続けた記念に建てられた。庚申の日の夜に眠ると、身体から三尸(さんし)の虫が這(は)い出し、天帝に告げ口することで宿主の寿命を縮めると信じ、集(つど)って夜を明かした風習を庚申待という。

(8)大日如来

正徳5年(1715)に建立。台座に8人の施主名がある。大日とは「大いなる日輪」という意味で、生きとし生けるもの全てが大日如来から生じたとされる。大日如来は宇宙そのもの、森羅万象そのもので、他の仏は大日如来の化身とされている。

(9)後藤義光寿蔵碑(じゅぞうひ)

(9)後藤義光寿蔵碑(じゅぞうひ)

後藤義光は南房総市千倉町生まれの安房の代表的な宮彫師で、寺社や山車(だし)、神輿に多くの作品がある。門人の後藤兵三と後藤喜三郎が発起人となり、門人や友人が米寿を祝って明治35年(1902)に建立。義光の生い立ちや人柄、非凡な技量を讃えている。撰文は元長尾藩教授恩田城山(じょうざん)、題字は貴族院議員万里小路通房(までのこうじみちふさ)、書は豊房村長鈴木周太郎で、背面には門人一同と友人の名前が刻まれている。建立の年に88歳で没した。

(10)十王堂

十王とは罪を裁く閻魔(えんま)大王を筆頭とする十尊の王。閻魔大王の化身(けしん)である地蔵菩薩が来福寺十王堂の本尊である。明治5年(1872)に清澄寺の金剛宥性(ゆうしょう)が開いた安房国地蔵菩薩百八か所霊場の百一番札所であり、御詠歌の額が掲げられている。

(11)高橋孝民(こうみん)の墓

(11)高橋孝民(こうみん)の墓

江戸時代中期に安房で活躍した出羽国(秋田県)出身の絵師。江戸へ出て鈴木南嶺(なんれい)に師事する。各地を歴遊した後安房に滞在し、病死した。文政13年(1830)没。享年35歳。 長須賀宝積院(ほうしゃくいん)で友人等に送られた。本名は辰五郎。画号は「蕗山孝民(ろざんこうみん)」。

(12)嶋野七郎の墓

(12)嶋野七郎の墓

海軍二等水兵で軍艦赤城の乗組員。昭和6年(1931)に作業中のロープ切断事故で事故死した。そのため赤城艦長の和田秀穂大佐が碑文を書いた。題字は北条町長の熊谷(くまがい)喜一郎。元内務官僚で初代樺太庁(からふとちょう)長官。昭和3年に北条へ移住し弁護士事務所を開いた。

(13)岩井久光の墓

(13)岩井久光の墓

生没年不詳の長岡(新潟県)藩士だった人物。柳生(やぎゅう)流剣術を学び、独自の剣道を生み出した。明治になり北条で道場を開き、多くの人々に剣道を教えている。老いて道場を閉める時に有志門人たちが久光を慕い、後世に名が残るようにと建てた碑である。

(14)撞木(しゅもく)供養塔

宝暦12年(1762)に長須賀の嶋野伊兵衛が施主となり、撞木(しゅもく)5600本の供養をした際の碑。この時の住職が24世宥長で嶋野家出身とみられる。撞木とは鉦(かね)を鳴らす時に使うT字形の棒のこと。

(15)日露戦役戦没者墓

(15)日露戦役戦没者墓

日露戦役で戦死した陸軍歩兵一等卒鈴木常吉の墓。明治37年(1904)11月28日、旅順(りょじゅん)攻略戦のなかで二〇三高地攻撃の際、名誉の戦死を遂げた。享年22歳。

(16)上埜(うえの)氏歴世墓誌

上野家の由緒が裏面にある。里見氏改易で伯耆(ほうき)倉吉(鳥取県)へ随従した家臣の家柄。帰郷後に帰農する。享保期に才庵義明が江戸で医を学び、助明、知明、義泰、清泰、義寧、隆卿と代々医を業とした。明治4年(1871)に隆卿が母親の一周忌に建立した碑。

(17)上野良輔の碑

(17)上野良輔の碑

良輔清泰(きよやす)は幼少から新井文山(ぶんざん)の塾で学び、のち江戸の昌平坂学問所に学んだ。故郷で医業を継ぐも病を患い、文政8年(1825)26歳で死去。翌年父義泰(よしやす)が建立した碑。新井文山が文をつくり、文山の師であり書家の幕府勘定方の役人杉浦西涯(せいがい)が字を書いた。

(18)歴代住職墓域

墓地中央に30基の石塔がコの字型に配置されている。宝永3年(1706)の第18世頼詳以降の歴世の墓石が19基あり、第18世~44世までが確認できる。他は歴世の弟子たちの墓。寛文8年(1668)没の法印自勢の墓石が最も古い。第41世の智傳は昭和28年(1953)に本堂を復興した。

(19)巨樹

(19)巨樹

館山平野を南北に走る砂丘列のうち、来福寺は、海岸から数えて2番目の砂丘の南端に位置している。境内にある数本の大木は、砂丘に自生した樹林が保護されて残ったのも。主な樹木名と位置は境内マップを参照されたい。


作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
愛沢香苗・羽山文子・丸山千尋・森田英子・山杉博子2017.4.17作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡:0470-23-5212