金台寺

金台寺 文化財マップ

金台寺(こんたいじ)の概要

(館山北条1042-1)

 館山市北条の南町にある浄土宗寺院で、正式には海養山龍勢院金台寺といいます。文明8年(1476)の創立と伝え、永正2年(1505)に鎌倉光明寺の学頭(がくとう)昌誉順道上人(享禄2年=1529年没)を迎えて開基としました。京都知恩院の末で本尊は阿弥陀三尊。館山城主里見義康のおじにあたる4世豪誉上人のとき、義康から寺領60石とともに、仏餉米(ぶっしょうまい)(仏に供える米飯)50俵が毎年与えられたそうです。徳川将軍家からも60石の朱印地を与えられ、門前の南町一帯は金台寺の所領でした。また6世檀誉上人の姉は徳川家康の内室であったことから特別の保護を受けたとされています。この当時の境内は二町四方で、堂宇の建坪は190余坪。7世正誉上人のときには浄土宗の房州一国の触頭(ふれがしら)として、安房国内の浄土宗寺院の行政的な管理をおこなうほどに隆盛し、塔頭(たっちゅう)2宇(専明院・要修院)、末寺7か寺のほか配下に5か寺を擁しました。触頭の地位は宝永年間に大網の大巌院に替わり、それからまもなく2宇の塔頭は廃されました。

(1)山門

平成13年に26世明誉覚道上人が建立した。山門から正面に本堂が見え、建物の調和がとれている。

(2)水準点

(2)水準点

 土地の高さを測る基準となる点で、山門を入って右奥に設置されている。ここは標高7.6832m。

(3)第六天様

 地元の講で信仰しており、「第六尊天王」の額が掲げられている。第六天はインドのバラモン教のシヴァ神で、仏教の守護神。天界のうち欲界の最高位他化自在天(たけじざいてん)を支配する第六天魔王のこと。日本では修験者が信奉し、福神として民衆の間に広まった。地元では現在も10月20日頃に講が開かれている。寺ができる前からの地主神だといわれている。

(4)日露戦役忠魂碑

(4)日露戦役忠魂碑

 2基のうち、右側は陸軍歩兵伍長石原金太郎の碑。明治37年2月に日露戦役に出征して各地を転戦、翌年3月の奉天(ほうてん)会戦で戦死した。享年28歳。題字は北条にいた伯爵万里小路(までのこうじ)通房、撰文と書は安房中学校教諭斎藤夏之助(東湾)である。左側は陸軍歩兵上等兵辰野清次郎の碑。明治37年3月に出征し、同年10月の旅順(りょじゅん)総攻撃の際に松樹山で戦死した。碑は兄清兵衛によって記されている。ともに北条の人。

(5)わらべ不動尊

 この堂には聖(しょう)観世音菩薩像とわらべ不動尊が祀られている。聖観音は徳川家康の内室良雲院殿天誉寿清大禅尼から贈られた秘仏で、慈覚大師の作と伝えられている。良雲院殿は武田信玄の娘で6世檀誉上人の姉とされている。わらべ不動は浄土宗の宗祖法然上人の誕生850年を記念して安置されたもので、法然の幼名勢至丸(せいしまる)の姿を不動明王になぞらえて鉈彫りの像として祀った。青少年・幼児の健全育成を祈願したもので、わらべ不動と称する。鴨川出身の木彫家長谷川昴(こう)の作である。

(6)名号(みょうごう)塔

(6)名号(みょうごう)塔

 正面に「南無阿弥陀仏」の名号を刻む。天明3年(1783)、宮地氏が3人の近親と先祖代々の精霊を供養するために奉納したもの。施主の宮地氏は那古に進出した近江商人で、その一族が南町に支店を出していた。故郷へ帰るに当ってこの塔を建立したらしい。山門が建立されるまでは参道入口にあった。

(7)本堂

(7)本堂

 25世深誉上人が檀信徒の協力を得て昭和46年に完成した。正面の須弥檀に本尊の阿弥陀如来と観音・勢至両脇侍(わきじ)の阿弥陀三尊を安置し、善導大師(中国浄土教の開祖)と円光大師(浄土宗の開祖法然)の像を祀る。その上には後藤義房作の天女の彫刻がある。向拝左側に掛かる額には円光大師二十五霊場の御詠歌が、「第六番北条金台寺 あみだぶと 西にこころは うつせみの もぬけはてたる 声ぞすずしき」と詠われている。

(8)本田存(ありや)先生の墓

(8)本田存(ありや)先生の墓

 群馬県館林の生まれで、水府流太田派の水泳を極め、柔道は講道館八段。東京高等師範学校の生徒を率いて来房し、のち明治36年(1903)から30余年間北条に住んで学生の指導にあたって、安房中をカッパ中学と称されるまでに育てた、房州の水泳・柔道の開祖である。昭和24年(1949)没、享年79歳。北条海岸の東京高等師範学校寮(現筑波大学北条寮)で没し、安房水泳倶楽部・安房柔道有段者会・茗渓会(東京高師OB会)によって分骨埋葬された。本堂裏の井戸近くにある。

(9)千日念仏供養塔

(9)千日念仏供養塔

 大津波による溺死者を寛文2年(1662)に供養したのではないかといわれているが確認はされていない。塔身の四面に南無阿弥陀仏の名号と経文が書かれて大勢の人の供養がなされ、「時に寛文2年正月25日 千日導師正誉上人」とあり、四面に749名の法名が刻まれている。

(10)義賊赤忠の墓

(10)義賊赤忠の墓

 「俗名赤忠(あかちゅう)墓」とある。赤忠は村々の金持ちばかりを襲って金銭・衣類・米を盗み、日々の生活が苦しい人々に盗んだ金品を恵んだことから「義賊」と評判になった。役人の探索にもかかわらずなかなか捕らえられなかったが、正木(那古地区)のワラ小屋に潜んでいるところを発見逮捕され、明治の初めに打ち首となった。岩糸村(旧丸山町)出身で本名は忠蔵、酒を好みいつも赤い顔をしていたという。

(11)水子地蔵

(11)水子地蔵

 台誉上人のとき、享保10年(1725)に順礼講中によって寄進された。

(12)如意輪観音坐像 写真右

(12)如意輪観音坐像

 7世正誉上人のとき、寛文2年(1662)に観音講中によって寄進された。

(13)舟形光背の地蔵菩薩 写真左

(13)舟形光背の地蔵菩薩

 7世正誉上人のとき、明暦元年(1655)に北条村の念仏講中によって寄進された。

(14)庚申塔

(14)庚申塔

丸石の正面に大きく「庚申講」とあり、文政9年(1826)に建立された庚申塔であることがわかる。

(15)万里小路通房の子の墓

 万里小路(までのこうじ)通房は明治天皇の侍従を務めた伯爵で、明治23年(1890)の退官後北条に移住して、昭和7年に没するまでの40年間に農業の近代化(野菜の促成栽培)と社会教化活動(安房大道会)に取り組んだ館山の先覚者。金台寺近くに屋敷があったことから、その間に没した子供たちの墓が建てられた。墓には通守(明治29年没)・津由子(明治35年没)・多美子(明治41年没)の名がある。

(16)行貝弥五兵衛父子の墓

(16)行貝弥五兵衛父子の墓

 行貝(なめがい)弥五兵衛国定と子息弥七郎恒興の墓。正徳元年(1711)に安房北条藩領27か村の総百姓が、過酷な課税に抗して立ち上がった万石騒動のとき、義憤を抑えがたく百姓方を援助したため、三義民処刑と同じ11月26日に北条村北原で処刑された地代官親子である。弥七郎は弾七郎恒興や弥七正と紹介する文献もある。


作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 石井道子・岡田喜代太郎・加藤七午三・御子神康夫
監修 館山市立博物館