稲村城跡を中心とした谷と丘陵地には古代から近世までの歴史があふれています。
加戸エリア
(1) 加戸(かと)地震記念碑と天王(てんのう)さま
加戸集会所の上に、関東大震災の記念碑と天王さま(牛頭天王)を祀った石祠がある。石祠の横の宝珠(ほうじゅ)と大正10年(1921)の銘がある露盤(ろばん)は、以前に集会所の場所にあった天王さまの堂のものである。牛頭天王は疫病や害虫を除く神様として信仰されている。7月12日に集会所周辺と(2)の愛宕神社の草刈りが行われ、女性は13日に集会所でお籠りを行う。
(2) 阿弥陀堂跡と愛宕(あたご)神社
墓地の隅にある墓石群の馬頭観音は弘化4年(1847)に制作、三面二臂の像である。愛宕神社は加戸区で祀っている神社で、かつて地蔵菩薩を本尊としていた。平成23年3月の東日本大震災で鳥居が被害を受けたが、5月には新しくしている。境内には疱瘡(ほうそう)の神様が祀られ、2月8日に集会所で疱瘡ごもりを行う。
稲エリア
(3) 水神(すいじん)の森
戦国時代、里見義堯の攻勢に里見義豊が力尽きて自害し、家臣の鎌田孫六が義豊の首をこの地に埋めたと伝わる。昔は老松があったが、現在はエノキ・タブ・サクラの木が生えている。祭祀はないが地区の有志で除草をしている。
(4) 首洗い井戸
義豊の首を洗ったという直径60cmくらいの井戸で、清水が湧いていた。付近の山が砂地のためきれいな湧水だが、冷水のため水田への引水には向いていなかった。昭和477年~60年に行なわれた圃場(ほじょう)整備により、現在は残っていない。
(5) 岩井柵(いわいざく)横穴墓(よこあなぼ)群
字(あざ)沼田と貴船神社の間の旧道に沿って横穴墓がある。沼田側からの旧道右脇に三段13基、左下に6基ある。内1基に、宝暦年間(1750年代)の墓石が2基入っている。古墳時代に造られた典型的な安房タイプの横穴墓とされる。
(6) 玉龍院(ぎょくりゅういん)
瑠璃光山玉龍院は臨済宗で、本尊は薬師如来。応永2年(1395)に建長寺の友峰等益大和尚が開山したという。里見義豊が開基として伝わる。天正5年(1577)に里見義頼が本堂を再建、薬師如来に祈願して眼病を治したとも伝わる。境内には、亀を台座とした大渓禅師の碑と鎮譲禅師の筆子塚がある。
(7) 下根(しもね)の弁財天
下根のタムラヤの人が伊勢参りの帰りに、袂(たもと)に蛇が入って追い払っても付いてきたので、弁天様としてお祀りしたと伝えられる。以前は、地区の人がお籠もりをしていた。今は無いが、ご神体は蛇が巻き付いた形であったという。社殿右裏には池があり、ヒカリモが発生している。
(8) 莫越山(なこしやま)神社参詣道 道しるべ
明治26年(1893)に莫越山神社の東京祖神講社が建立。豊田村(旧丸山町)沓見にある莫越山神社まで、1里19町28間(約6km)とある。JR線沿いの旧県道にあったが、昭和27年に国道128号が開通した時、現在地へ移された。
(9) 稲村院(とうそんいん)阿弥陀堂
元は浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。享禄元年(1528)頃まで存在し、その後断絶。寛文2年(1662)に再興され、昭和26年に浄土宗大巌院の境外仏堂となった。境内には、宝篋印塔笠石、万里小路通房揮毫の山口五平の寿碑、日露戦争戦没者の碑がある。五平は稲村の筆取りを勤め、華道・歌道・俳諧・謡などを嗜んだ文化人として、松竹園梅寿の号をもつ。稲の万里小路家の農地の管理もしていた。参道には延享3年(1746)住職安誉栄扇建立の大日如来像、文化6年(1809)の出羽三山碑、明治5年(1872)の西国三十三観音巡拝碑がある。
(10) 祭礼の幟立(のぼりたて)
貴船神社の祭礼用幟立。昭和2年(1927)に稲の村越ふじと娘の安部カクが奉納した。
(11) 城井戸 2ヵ所
水往来の東西の登り口近くに、それぞれ城井戸と呼ばれる湧き水の井戸がある。城の飲料水にしたといわれ、甕に入れ水往来を登ったと伝えられている。
(12) 貴船(きぶね)神社
水に関わる神の闇龗(くらおかみ)の神・高龗(たかおかみ)の神を祀る、稲区の鎮守である。社殿入口の礎石に中世の武士の墓石だった宝篋印塔の返花座(かえりばなざ)が使用されている。昭和10年頃までは天王さまの神楽(かぐら)がおこなわれ、昭和30年代中頃までは祭りの屋台も引かれていた。鳥居・石灯篭・手水石は大正年代に山口重次郎が奉納したもの。
城山エリア
★稲村城跡
安房丘陵北端部に位置する東西・南北ともに500m規模の「山城」で、山頂の主郭部は広大である。平成24年(2012)に、里見氏城跡として国の史跡に指定。天文2年(1533)の天文の内乱の舞台となり、この結果、里見義豊は里見義堯に滅ぼされ、稲村城も廃城となった。城跡中郭部からは縄文土器や、弥生時代末~古墳時代中期に作られた竪穴住居跡が発見され、奈良時代に生活した人々の痕跡も確認された。丘陵斜面には古墳時代後期の横穴墓が多数ある。
(13) 戦国時代の墓石
中世の五輪塔と宝篋印塔がある。以前は貴船神社の左手の崖下にあった。
(14) 正木様
里見氏一門の正木氏の子孫5軒が旧暦2月18日に先祖を祀っていた。現在は本家で祠の掃除や正月・お盆などのお飾りをしている。『安房志』には、稲村大明神の古い祠があり、里見越前守忠弘・里見下総守忠光・里見主膳正(しゅぜんのかみ)弘経の霊を祀るという記述がある。この三人を先祖とする正木家系図も伝わっている。
(15) 竹尾横穴墓
稲村城跡主郭部の南側堀切の下に、古墳時代の横穴墓が2つある。
(16) 堀切(及び土橋)3ヵ所
敵の侵入を防ぐために、主郭へ続く尾根を断ち切って通行を遮断したもの。
(A)
水往来方面から北方に延びる緩斜面の主郭櫓台の手前に堀切を穿(うが)ち、裾には敵を迎え撃つための張り出しがある。直角に曲がっていて道は狭められ、一挙に虎口(こぐち)へ殺到できない作りになっている。
(B)
主郭より東方に延びる尾根からの取付きに堀切と土塁が築かれている。東方からの攻撃を避けるため堀切を穿ち、地山を削って土塁を築いている。
(C)
(B)の堀切から東北東に延びる尾根は自然地形で、90m先に人ひとり通れるくらいを削り残した土橋を伴う堀切がある。土橋より東方向へはさらに90m程延び、尾根先端は垂直に断ち切られ、取付くことを不可能にしている。
(17) 虎口(こぐち)
防備のための重要な場所で、主郭(しゅかく)の入口に高さ数メートルの張り出しを設け、通路を狭くし、カギの手状に曲げ、正面から敵を迎え撃つ工夫がされている。
(18) 山頂
*主郭部
狭かった山頂を削って西側に土を入れ、広い曲輪(くるわ)をつくってある。昭和58年(1983)の発掘調査により、主郭の西側には南端で1m、北端で2.1m以上の盛り土が確認された。盛り土は性質の異なる土を交互に積み重ねた版築(はんちく)技法で固めてある。西側の盛土層以外は地山を削った岩盤である。
*土塁
山頂の東から南を削り残して土塁と櫓台(やぐらだい)を築き、東の尾根からの攻撃を防御できるようにしてある。北と西は切岸(きりぎし)状の急崖になっている。
(19) 浅間祠(せんげんし)
主郭部の東側に張り巡らした土塁の最高所に祀られている。江戸時代以降のものだが風化が激しく詳細は不明。要害からの登り道の鳥居は浅間祠のもので、昭和3年(1928)8月に富士登山10周年記念として関係者38名により建てられた。
(20) 愛宕神社
城跡主郭部から東南の小高い丘を字(あざ)鎮守といい、愛宕権現が稲村城を守護するための神社だったと思われる。
(21) 円通寺(えんつうじ)観音堂
西柵(にしざく)にある観音堂は通称東向き観音と呼ばれ、安房郡札観音第9番札所である。参道には、馬頭観音像等が祀られ、伊勢参拝記念碑も並んでいる。
(22) 五輪様
城跡の東北に「五輪様」と呼ばれる遺跡がある。昔は五輪塔の安置された「やぐら」であったと推察されるが、崩落しその原形を留めない。現存する五輪塔は14世紀前半~16世紀のもので一部は道路付近まで落下している。昭和43年にここから元応元年(1319)の板碑が出土した。「元応板碑」として大網の大巌院に保管され、市指定文化財になっている。
(23) 山の神
城跡の北斜面に大きなイチョウの木があり、根元に山の神が祀られている。正月詣でや7月初めのホウチョウ祭には、うどんを捧げていたが今はすたれてしまった。昭和50年代頃までは茅場だった所で、茅仲間が交代で茅刈をしていた。
(24) 共有地の碑
稲集会所や消防詰所のある土地は、昭和49年(1974)に鳥海金吾氏から稲区へ共有地として寄贈された。その好意を後世に伝えるために翌年に建立された。
<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
青木悦子・刑部昭一・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・殿岡崇浩>2020.12.6作
監修:館山市立博物館 〒294-0036館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212