亀ヶ原・西郷・府中

古代には安房国の国府がおかれ、中世に至るまで安房地方の中心地だった亀ケ原・府中・西郷に刻まれた歴史を歩いてみよう。

府中(ふちゅう)エリア

(1) 宝珠院

 真言宗のお寺で、金剛山宝珠院といい、江戸時代までは安房国にある真言宗寺院の支配所であり、学問所でもあった。広い境内にいはま本堂(本尊地蔵菩薩立像)と左手の観音堂・清滝権現がある。観音堂は安房国札観音巡礼の第23番札所で、十一面観音菩薩を本尊とする。鎌倉時代の徳治2年(1307)のお像で、もとは西光院という子院の本尊だった。西光院は尼寺と呼ばれ、御詠歌にも「あまでらへ 参るわが身も たのもしや はなのお寺を 見るにつけても」とあり、享保15年(1730)の御詠歌の額が残されている。観音堂はもとの仁王門を改修した建物で、欄間の龍は初代武志伊八郎による寛政2年(1790)の作品。境内には里見義康の家臣岡本左京亮頼元が慶長11年(1606)に、死後の冥福を願って建てた逆修塔がある。宝珠院周辺が安房国府の推定地とされているが、発掘調査では確認されなかった。

(2) 八坂神社

(2) 八坂神社

 府中の鎮守。むかしは宝珠院の子院である徳蔵院が別当を勤めていた。本殿の左側に並ぶ石祠のなかに、午頭天王(ごずてんのう)とあるのは八坂の神様のこと。山包のマークは浅間様で、明治8年(1875)に建てられている。道祖神は疫病などが村へ入らないように境を守る神で、この地方では道陸神(どうろくじん)と称することが多い。なお昭和62年に社殿の裏側で発掘調査が行なわれ、古墳時代の円墳が削られて埋没しているのが確認されている。

(3) 元八幡神社

(3) 元八幡神社

 安房国府が府中周辺にあったころ、安房国の総社とされる鶴谷八幡宮がこの場所にあったと伝えられている。そのため元八幡神社と称している。江戸時代には八幡宮の神主がこの神社周辺の土地を将軍家から与えられていた。また毎年「やわたのまち」のときには、ここの井戸で水を汲むことから祭りがはじまっており、八幡宮にとって由緒ある場所といえる。

(4) 閻魔堂(えんまどう)

 府中の台という集落にある閻魔王像を祀っているお堂。境内入口に並ぶ石塔や無縁の石塔のなかに、諸国巡礼の記念塔である廻国塔が多く見られる。古いものは正徳2年(1712)に能登国長福寺の弟子川名多次兵衛が建てたもので、四国八十八か所と坂東・秩父・西国の百観音を巡礼している。ほかにも宝暦5年(1755)・文化7年(1810)・天保3年(1832)の塔がある。墓地の奥には、千倉の円蔵院・真言院・真野寺と府中の佐野由蔵の四人が明治29年に四国遍路をしたときの記念碑がある。

(5) 庚申塔

(5) 庚申塔

 塔の三面に三猿の像を刻んだ庚申塔。年代は刻まれていない。西郷にも「サンノウサマ」と呼ぶ石宮があり、天明8年(1788)と文政7年(1824)の年号が刻まれた庚申塔である(5-2)。

西郷(にしごう)エリア

(6) お地蔵さま

 府中と那古を結んだ主要街道に沿った場所にある。地蔵尊像は天保7年(1836)のもので、他に文化15年(1818)の馬頭観音と文政4年(1821)の出羽三山碑がある。

(7) 姫宮様

(7) 姫宮様

 田のなかに複数の中世の石塔の石がまとまって据えられている。五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)の一部で、地元では里見氏の姫を葬ったものと伝えている。むかしは一段低い田のなかにあった。

(8) 六所神社

(8) 六所神社

 六所神社は一般に、古代国府に付随しておかれたもので、国内の主要な神社の神を国府に集めて祀ったものをいう。ここも安房国府に関連した六所神社と考えられている。神社が所在する西郷は、里見氏の時代に現在の府中を東国府と称したことに対する、国府の西側という意味であろうか。境内右手には西郷の川上新次郎を社長とする山三浅間講社が建てた、明治18年(1885)の浅間祠が祀られ、左手にはクジラの骨を祀った祠がある。社殿には明治20年の俳句額が掲げられている。

亀ケ原(かめがはら)エリア

(9) 新御堂(にいみどう)

(9) 新御堂(にいみどう)

 元来は、真言宗の秀満院境内地である。秀満院は大正震災で倒壊していたため、昭和42年に亀ケ原北方の青木根から新御堂が移転してきた。新御堂は安房国三十三観音霊場の第二番の札所として知られ、本尊は聖観音立像。堂内には明治3年につくられた大きな大黒天像もまつられている。境内の宝篋印塔は明和5年(1768)のもの。なお、この周辺を蔵敷(ぞうしき)といい、律令時代の国衙などの下級役人「雑色(ぞうしき)」を意味する称が地名となったものであり、安房国府との関連が考えられる地域。

(10) 八幡神社

(10) 八幡神社

 江戸初期の元和6年(1620)に再建したときの棟札が残されている。境内には四十八貫目(180kg)と刻んだ力石や文化10年(1813)の手水石、文政11年(1828)の灯籠がある。灯籠には籠り所や灯籠の油代の費用にあてるために、田が寄進されたことが記されている。入口にある昭和天皇の御大典記念碑は、八幡に引退してきていた高級官吏の檜垣直右(ひがきなおすけ)の揮毫。

(11) 六地蔵

(11) 六地蔵

 道の角に建てられた六地蔵。正徳4年(1714)10月24日に還誉生愚が建て替えたもので、それ以前には宗春という人物が建てたものがあったと刻まれている。六地蔵は辻や村の入口・墓地の入口・寺の入口など、この世とあの世の境といわれる場所に建てられる。地蔵は、生きものが輪廻(りんね)する六つの世界の入口にいて人々を救うとされている。

(12) 新御堂旧地

(12) 新御堂旧地

 青木根の中腹にある墓地は新御堂の旧地で、御詠歌に「にいみどう 見上げてみれば 峯の松 くびこい鶴(汲み越えつる)に亀井戸の水」と歌われている井戸が山裾にある。亀井戸が「亀ケ原」の地名の由来といわれ、また文化年間の火災までは、お堂へかぶるように峯の松があったと伝えられている。跡地には正徳4年(1714)の石造地蔵菩薩立像が立ち、辻の六地蔵と同時につくられたものである。また、鏡ケ浦にかけて「人も見ぬ春や鏡の裏の梅」と刻んだ芭蕉句碑がある。宝暦11年(1761)以前のものであることが確認されている。天明5年(1785)の灯籠は、「武州崎玉郡八条領青柳村」(埼玉県草加市)の高橋氏と三蔵院・東覚寺(ともに真言宗)が施主となって建てたことが書かれているが、由緒は不明。

(13) 横峯(よこみね)堂

 山田家の墓地に幕末の剣士山田官司の供養碑がある。北辰一刀流の剣豪千葉周作の高弟で、理論派として知られる。幕末には安房の人々にも剣術指南をしているが、出羽庄内藩が指揮した新徴組に参加して、肝煎取締役という指導的立場についた。戊辰戦争の際に、旧幕府方の庄内藩と行動をともにして戦ったが、銃弾をうけた傷がもとで翌年に死亡した。墓は山形県鶴岡市にある。


監修 館山市立博物館