坂田・波左間

古くからの漁村であるとともに、太平洋戦争以前、東京湾防衛の要地となり、数々の戦争遺跡が残る坂田と波左間。海水浴場としても毎年賑わう海に面した集落の歴史を探訪しましょう。

坂田(ばんだ)エリア

(1) 弁天様・ジュウニフナサマ

(1) 弁天様・ジュウニフナサマ

 坂田漁港脇の小高い丘に赤い鳥居が2つある。海のほうを向いているのが弁天様で、石宮の中には安永9年(1780)の庚申塔がある。弁天様の脇には鶏の絵馬と大黒天のお面が奉納されている。絵馬は毎年家庭のお勝手(おかみ様)に祀り、新年にここに奉納するという。もう一つはジュウニフナサマと呼ばれていて、船の仕事に関わる人々の信仰を集めていたのかもしれない。

(2) 洲崎第2砲台跡

(2) 洲崎第2砲台跡

 この地域は東京湾の入口にあたり、古くから東京湾防衛の要地で、大正時代の末から昭和初期にかけては各種施設が建設され、軍事上の重要地帯となった。洲崎第2砲台は大正13年(1924)に起工し、昭和2年(1927)に竣工した。砲台の付近にはトンネル状の弾薬支庫や砲側庫などがあり、橋や井戸、兵舎跡と思われる建物の基礎部分が残されている。バス停近くの門柱は砲台の入口を示すもの。

(3) 実蔵院

(3) 実蔵院

 不動明王を本尊とする真言宗の寺院。熊野神社の別当をつとめていた。境内にある宝篋印塔は36歳で亡くなった隆教の菩提のために師の隆基が建てたもの。天明3年(1787)のもので、鋸山日本寺の千五百羅漢の作者である木更津出身の石工大野甚五郎英令の作。

(4) 熊野神社

(4) 熊野神社

 熊野神社は坂田地区の鎮守。境内には稲荷様と浅間様が祀られている。鳥居前の手水石は文政3年(1820)12月のもの。他に「卍」が刻印された石宮がある。また、別当寺の実蔵院に稲荷明神像が所蔵されている。

(5) 西方寺

(5) 西方寺

 曹洞宗の寺院。本堂内に安置されている虚空蔵菩薩坐像は室町時代の作。本堂脇の墓地には、江戸時代後期に房総沿岸警護のために築かれた波左間陣屋に配置された白河藩士たちの墓が3基残されている。西方寺に近い旧名主家には、江戸時代の文書などが多数残されていて、当時の人々の生活や漁の様子を伺うことができる。

(6) 共同墓地

(6) 共同墓地

 この墓地にある魚籃観音とは三十三観音の一つで、手に魚の入った籠を持つ姿で作られ、海や魚の信仰と関連がある。そのほか文化11年(1814)に坂田の行者大翁壽圓が建てた廻国搭があり、上段の墓地にも寛政2年(1790)に坂田の法心という行者が建てた廻国搭がある。

波左間(はさま)エリア

(7) 浅間様・金比羅様

 戦前までは富士講があり先達もいたが、戦争が始まり講はなくなった。雨の少ないときには浅間様の前で雨乞いを行っていたが、田んぼがなくなってからはやっていない。浅間様に向かう途中には金比羅様があり、船の安全を守っている。

(8) 観音堂

(8) 観音堂

 本尊の十一面観音像は安房郡札辰年観音の第27番札所で、ご詠歌は「あまてらす 月ははさまに かげそへて ふねにたからを 積むはどうざき」。境内にある天保3年(1832)の大乗妙典納経供養塔は行者兵三郎のもので、脇願主は平磯村の寛従。また、観音堂右脇を抜け漁協の裏にまわると3つの石宮があり、それぞれ「リョウゴサマ(竜宮様)」と呼ばれている。

(9) 第59震洋隊滑り台跡

 「震洋」と呼ばれる水上特攻艇は,上陸用船舶の撃沈を目的とし、昭和19年(1944)から終戦までに約6200隻が建造され,房総半島の他,伊豆半島,四国,九州の米軍上陸予想地点に配備された。東京湾口地帯にも震洋隊が配置されたが、その一つが「第59震洋隊真鍋部隊」で,終戦間近の昭和20年(1945)7月14日,波左間を基地とした。後背山手の格納壕には、50隻以上の震洋が配備されたという。現在、波左間海岸に震洋搬出路跡が残っている。

(10) 諏訪神社

(10) 諏訪神社

光明院と諏訪神社 文化財マップ

 波左間地区の鎮守で、建御名方命(タケミナカタノミコト)を祀る。毎年7月1日に行われる祭礼では国の選択記録無形文化財の「ミノコオドリ」が奉納される。拝殿には明治12年(1879)渡辺雲洋作の「仁田四郎猪退治図」や、昭和15年(1940)寺崎武男作の「素戔嗚尊図」がある。境内には砲弾が奉納され、神社周辺にも多くの防空壕が残されている。手水石は弘化2年(1845)江戸本船町の魚問屋伊豆屋善兵衛が奉納したもの。

(11) 光明院

(11) 光明院

光明院と諏訪神社 文化財マップ

 青龍山光明院といい、不動明王を本尊とする真言宗の寺院。本堂の地蔵菩薩坐像は膝前で着衣を垂らす法衣垂下のスタイルで、室町時代末の作とされている。本堂向拝正面には、後藤利兵衛橘義光の彫刻が施されており、裏面額の銘文により明治元年(1868)に制作されたことがわかる。本堂裏手の墓地には、波左間陣屋に配置された白河藩士たちの墓が数基残されている。

(12) 稲荷様・熊野様

(12) 稲荷様・熊野様

 稲荷神社では以前2月の初午の際にミノコオドリが奉納されていた。熊野神社は紀州から移り住んだ人たちが建てたもので、現在もその子孫が守っている。稲荷神社参道の左側は明治6年(1873)に開校した波左間学校があったところ。

(13) 共同墓地(地蔵堂跡)

(13) 共同墓地(地蔵堂跡)

 安政5年(1858)の出羽三山供養塔があり、天保12年(1841)の出羽三山と西国秩父坂東百観音の供養塔もある。また道路を挟んだ向かい側には、明和4年(1767)の廻国塔と酒樽の形をした墓がある。ここは以前安房国108か所地蔵巡りの第98番札所である地蔵堂があったところで、ご詠歌は「朝まだき はさまが浦に こぐふねは いずくに慈悲の つりやたるらん」。

◆ 波左間のミノコオドリ<国選択記録無形民俗文化財>

 ミノコオドリは、館山市波左間と洲崎、南房総市千倉町川口に伝承され、それぞれ地元の神社における祭礼時などに境内や地区内で踊られる。波左間では小学生から中学生の女子が踊り手で、右手に扇または団扇を持ち、左手にオンベと呼ばれる御幣のようなものを肩に担ぎ、十人前後で輪になって、右回りに踊る。この時、年配の大人4~6人が、歌、太鼓などの演奏をする。南房総地方のミノコオドリは、相模湾西岸に分布する「鹿島踊」と共通点がある一方で、南房総地方独自の地域的特色も見られる。

◆ 波左間陣屋と白河藩士

 寛政の改革で知られる老中松平定信(白河藩主)は、江戸湾警備の担当となり、洲崎に台場、波左間に陣屋を置き江戸の防衛にあたった。波左間の陣屋は松ヶ岡陣屋と呼ばれ、砲台のある洲崎とともに、白河から500人もの人がやってきて警備にあたったという。交替で台場の勤番にあたり、江戸湾に侵入する異国船を見つければ追い払うというのが任務だった。松ヶ岡陣屋が使用されたのは、文政6年(1823)までの14年間だった。今でも陣屋に近い光明院・西方寺・東伝寺(見物)には、白河藩関係者の墓が残されている。


監修 館山市立博物館