岡沼・柏崎

沼地区周辺は、明治時代に豊津村と名付けられた。豊かな港になろうという意味。海とともに歩んだ沼地区の歴史を歩こう。

岡沼エリア

(1) 十二天神社

(1) 十二天神社

 千葉県で最大のビャクシンの木がある。推定樹齢 800年。幹の周りは7.45m、高さ17m。枝は東西20m、南北24mに広がり、11本に枝分かれしている。ハゼノキ・イヌビワ・シロダニ・マサキ・トベラなどが着生している。社殿の向拝にある龍の彫刻は、館山藩の絵師だった川名楽山が明治時代に奉納したもの。作者は安房を代表する彫刻師の後藤義光。

(2) ヒカリモ・沼サンゴ層

(2) ヒカリモ・沼サンゴ層

 ヒカリモは、この一帯の山裾の洞窟に点在している。黄金色に輝く藻。ミクロ単位の小さなもので、水中に浮かび、気候の条件によって水面に膜をはる。ヒカリモ自身が光を出すのではなく、外の光が細胞の奥で反射され、細胞の色素によって美しい黄金色に輝く。沼サンゴ層もこの一帯にあり、県の天然記念物。75種類のサンゴ化石がある。約6000年前の縄文海進のときに育っていたサンゴが、土地の隆起によって標高20mのところで化石になったもの。「キクメイシ」と呼ばれたりしている。香や南条・出野尾などでも見ることができる。

(3) 薬師堂

 むかしは真言宗の広徳院といった。墓地のなかに中世の石塔や残欠や享保元年(1716)の西国巡礼の塔がある。堂のなかには沼の絵師勝山調が描いた「スサノオの図」の額がある。

(4) 天満神社

(4) 天満神社

 平安時代の国司源親元が建てたとされている。境内には地元の絵師川名楽山の記念碑(明治33年)や枇杷山開拓者法木翁の碑(昭和44年)、溜池竣工記念碑(昭和28年)があるほか、書家小野鵞堂が揮毫した明治35年の菅公一千年祭記念碑、北条にいた伯爵万里小路通房が題額を書いた拝殿改築記念碑(大正8年)などがある。菅原道真の歌を書いた明治35年の植樹記念碑もある。

(5) 石塚のヤグラ

(5) 石塚のヤグラ

 上の台地には墓地があり、むかしは地蔵堂だった。南側の道にそって中世のヤグラがあり、その壁面には4基の五輪塔が浮き彫りされていた跡がわかる。鎌倉時代から室町時代のこの地域の武士の墓だろう。

(7) 総持院

(7) 総持院

 真言宗の寺院。平安時代の国司源親元が永長2年(1097)に建てたと伝えている。里見時代の古文書が伝わっていて、里見義康が天正19年(1591)に寺領を寄進したものと、里見忠義が慶長11年(1606)に寺領を与えたときのもの。境内には、沼の絵師で狂歌師だった勝山調の辞世の狂歌碑がある。寺の北側にある観音堂には、山調の娘クラ女の墓がある。

(8) 大寺山洞穴

(8) 大寺山洞穴

 標高25mにある海食洞穴。高さ3m、奥行25m。古墳時代に墓として利用され、発掘調査で人骨・土師器・須恵器・大刀・短甲二種類・丸木舟などが出た。ヤマト王権と結びついたこの地域の実力者のもの。近年の調査では棺につかったたくさんの丸木舟が出ており、海の道を支配した安房の海人の墓とされている。保存のため、現在は立ち入りは禁止。

柏崎エリア

(6) 浄閑寺

(6) 浄閑寺

 浄土宗の寺院。墓地のなかに、天保13年(1842)に建てられた鯨漁の供養塔がある。また本堂横には山の神と思われる金太郎の石像がある。

(9) 国司神社

(9) 国司神社

国司神社 文化財マップ

 平安時代の1096年~1100年まで、安房国の国司だった源親元を祭神にしている。仏教を通して安房の政治を行い、人々に慕われた人物。勤めを終えて京都に帰るとき、柏崎から船で出発したが、その時別れを惜しむ人々に着物の袖を与えた。親元の死後屋敷跡に袖を祀ったのが神社の始まりだとされている。神社横の広場は、むかし国司神社を管理していた泉光院という寺の跡。境内には天保3年(1832)の石鳥居と石灯籠や、豊津村の日露戦争碑があり、階段下には宝暦5年(1755)の廻国供養塔がある。

(10) 鈴木家住宅

(10) 鈴木家住宅

 江戸時代に盛岡藩(岩手県盛岡市)南部氏の廻米を扱う御穀宿という船宿だった。南部屋と呼ばれて、藩から赤門を建てることを許されていた。高の島湊へ藩の船が風除けに避難してくると、積荷の保護や乗員の世話などをした。明治時代になって医者になり赤門病院と称した。住宅は大正の大地震直前に建てられた本格的な洋館。

(12) 西の浜青年館(西の浜)

 大正3年(1914)に館山町で建てた道路元標がある。もとは西の浜と上須賀の境のバス通りに建っていた。ちなみに館山地区公民館に、明治26年(1893)に豊津村が建てた道路元標もある。もとは宮城の豊津ホール入口にあったもの。

(13) 地蔵尊(上須賀)

(13) 地蔵尊(上須賀)

 見留橋のたもとにある地蔵尊。江戸の法心と千葉の浄心という日本廻国の行者が、江戸時代中期の享保年間に建てたもの。右にあるのは文化9年(1812)に十九夜講で建てた如意輪観音。十九夜講は、女性たちが安産祈願をする子安講のこと。

鷹の島エリア

(11) 鷹島弁天閣

(11) 鷹島弁天閣

鷹の島 文化財マップ

 高の島の弁天様は、平安時代の嘉保年間に源親元が勧請したといい、漁師の信仰をうけてきた。大正10年(1921)には湾内12の網主が、魚付林としてマテバシイ 300本、杉50本を植樹している。境内には大正15年に建てた大正地震紀念碑がある。題字は貴族院議長の徳川家達、撰文は千葉県知事の元田敏夫。社殿前の手水石は館山海軍航空隊が奉納したもの。社殿周囲の玉垣は地元の人ばかりでなく宮城県や茨城県などの船主も寄進している。波切不動もあり、海で生活する人々の信仰の様子を伝えている。


監修 館山市立博物館