北条(南町・新宿・長須賀)

安房の中心地として、多くの人々が行き交う北条地区。南町・新宿・長須賀エリアには、古くからの建築物が多く残っています。いつもの道をゆっくり眺めて、町の歴史を味わってみましょう。

南町(みなみちょう)エリア

(1)蛭子(ひるこ)神社

(1)蛭子(ひるこ)神社

南町の鎮守で、江戸期の別当は北条北町の不動院が務めていた。「蛭ヶ島権現(ひるがしまごんげん)」とも呼ばれることから、この地はかつて、島状になった川の中州だったと考えられる。境内には、安政6年(1859)に当村(北条村)の釜屋茂兵衛・山田金助が奉納した手水鉢(ちょうずばち)や、無銘の力石がある。また、明治38年(1905)に石垣を築いた際の寄付者51名と世話人3名(稲向儀兵衛・川名惣吉・渡辺恒三郎)の名を記した石垣の一部が残る。

(2)金台寺(こんたいじ)

(2)金台寺(こんたいじ)

金台寺 文化財マップ

浄土宗のお寺で、海養山龍勢院金台寺という。文明8年(1476)の創立と伝えられ、永正2年(1505)に鎌倉光明寺の学頭昌誉順道上人を迎えて開基とした。4世豪誉上人は里見義康の伯父であり、寺領60石を与えられるなど、里見氏の厚い保護を受けていた。江戸時代も朱印地60石を引き続き認められている。墓地には、正徳元年(1711)に北条藩の領民が決起した万石騒動で領民側にたって処刑された代官行貝(なめがい)弥五兵衛親子の墓や、明治の初めに打ち首となった義賊赤忠(あかちゅう)の墓がある。また本堂裏手には、明治36年(1903)から30余年の間、北条に住み、安房中学校で水泳・柔道を指導した本田存(ありや)先生の墓もある。金台寺は、大正2年(1913)に六軒町にあった浄円寺(じょうえんじ)を合併しており、同寺にあった板碑形五輪塔2基も伝えられている。

新宿(しんじゅく)エリア

(3)神明神社

(3)神明神社

新宿の鎮守で、神明町の神明神社(大神明(おおじんめい))に対して「小神明(こしんめい)」呼ばれていた。狛犬は大正9年(1920)に新宿区の女性9名と富浦村岡本の女性1名の計10名が奉納したもので、彫刻師は千倉の3代後藤義光、石工は長須賀の石勝である。境内には力石や戦国時代のものと思われ宝篋印塔(ほうきょういんとう)の笠石がある。神社裏手が一段低くなっており、砂丘上に位置していることが分かる。

(4)海蔵寺(かいぞうじ)

(4)海蔵寺(かいぞうじ)

長新山海蔵寺といい、かつては真言宗のお寺だった。延亨4年(1747)建立の幸福地蔵、天保9年(1838)奉納の手水鉢、安政5年(1858)奉納の永夜塔がある。墓地には幕末の寺子屋師匠・田井義明の石碑や、関東大震災の被災者を弔うために北条町青年団新宿支部が建立した「恭用震災殃死(おうし)者諸民之霊」碑がある。

長須賀(ながすか)エリア

(5)安房高等女学校跡

現在、千葉県職員住宅がある辺りには、昭和6年(1931)まで安房高等女学校(後の県立安房南高校)の校舎があった。同校は明治40年(1907)に安房郡立技芸学校として開校した後、同42年に群立安房高等女学校となり、翌年この地に校舎が落成した。大正10年(1921)に同校が県立となった後も引き続き使用されたが、関東大震災で倒壊したため、北条に新校舎を建設し移転した。

(6)八石三斗(はっこくさんど)

「八石三斗」という小字(こあざ)で、里見氏の時代に製塩が行われていたところ。ここが北条の飛び地になっているのは、この場所での製塩の権利を北条村の人々が持っていたためである。周辺には長須賀の塩場があり、「塩焚(しおたき)」の小字が残っている。江戸時代には六軒町の浜に新塩場ができているが、元禄地震以降、製塩は行われなくなった。

(7)来福寺(らいふくじ)

(7)来福寺(らいふくじ)

来福寺 文化財マップ

真言宗寺院で海富山来福寺という。里見氏の時代から江戸時代まで引き続き下真倉(しもさなぐら)に寺領12石を与えられていた。薬師堂には室町時代中頃の木造薬師如来立像が祀られている。境内には彫刻師である初代後藤義光の米寿を祝って建てられた寿藏碑(じゅぞうひ)がある。また、手水鉢は文久3年(1863)に、池田屋金七・糀谷(こうじや)源平など長須賀の有力商人ら14名が世話人となって奉納したものである。安房郡札観音巡礼第21番霊場。

(8)紅屋商店

(8)紅屋商店

金物などの専門店である紅屋商店は、明治26年(1893)に和田(南房総市)から移転し長須賀で開業した。現在の店舗は関東大震災に耐えて残った蔵を利用しており、国の登録有形文化財。

(9)小谷(おだに)商店

(9)小谷(おだに)商店

潮留橋から東に延びる通りは、館山汽船場を利用した物資流通に便利な位置にあり、明治11年(1878)に東京・館山間に汽船が就航した後、問屋街として繁栄した。通りに建つ小谷商店は、おもに車の燃料用や食用の油を扱う問屋で、他に砂糖やメリケン粉も扱っていた。現在の建物は大正7年(1918)頃のもので、関東大震災後に補強と落ちた瓦の葺(ふ)き直しを行っている。昭和40年(1965)頃まで食用油や雑貨・荒物の問屋として営業していた。

(10)稲荷

(10)稲荷

南長須賀町内ホール前に建つ稲荷社は、昭和40年(1965)頃にホール(旧青年館)を建設した際に建てたもの。それ以前は現在ホールがある場所にあった建物の中に祀られており、「お稲荷さんの集会所」と呼ばれ利用されていた。安政4年(1857)奉納の手水鉢と明治34年(1901)奉納の線香立がある。

(11)表町・裏宿

長須賀のうち表町と裏宿は、里見氏の時代に造成された館山城下町の一部であった。北条の北町からこの辺りまで通り沿いに町家が連続しており、一旦途切れた後、汐入川(しおいりがわ)から城の方向へ城下町が広がっていた。

(12)地蔵跡

(12)地蔵跡

現在長須賀の屋台小屋がある場所には、昭和初期まで道沿いにお地蔵様が置かれており、隣の種屋鶏肉店は「ジゾウミセ」と呼ばれていた。この地蔵は現在、(14)熊野神社と宝積院の入口左脇に移されている。

(13)酒のあきやま

寛政年間(1789~1801)創業。以前は秋山酒造店といい、清酒「長楽」やジュース類を製造していたが、現在は小売のみを行う。文政8年(1825)建築の住居が関東大震災でも倒壊せずに残っていたが、昭和32年(1957)に現在の住居に立て替えている。

(14)熊野神社

(14)熊野神社

長須賀の鎮守で、かつては来福寺に鎮座していたと伝えられる。隣接して真言宗の神明山宝積院(ほうしゃくいん)が建つ。入口左の地蔵と境内の三神社は、(12)の場所にあったものを移したと伝えられる。手水鉢は安政6年(1859)に氏子中が奉納したもの。また、三神社の手水鉢は寛政7年(1795)に奉納されたもので、正面に薬師堂と書かれている。神社裏手に架かる幸橋は、明治26年(1893)建造の石橋。

(15)境橋

(15)境橋

新宿と長須賀の間に架かる橋。中世には新宿は北条郷、長須賀は真倉郷に属しており、両郷の境を流れる川が境川と呼ばれた。現在の橋は昭和14年(1939)竣工のもの。


館山市立博物館(2014年11月9日作成)
館山市館山351-2 TEL:0470-23-5212