那古地区正木

館山平野の北部、海を臨む丘陵には縄文遺跡や古墳が分布し、平野部には戦国武将正木氏の伝承や諏訪神社の民話が残る土地。信仰深い人々が残したたくさんの石碑を見て歩こう。

正木岡(まさきおか)エリア

(1) 谷田(やた)の出羽三山碑

(1) 谷田(やた)の出羽三山碑

 谷田集落のカワッパナという場所で、安永8年(1779)に谷田の文内ら9人が登拝したときの出羽三山碑と、文政年間の出羽三山碑がある。大日如来像は宝暦6年(1756)のもの。丸石に阿弥陀三尊を刻んだ塔は文政9年(1826)の西国三十三観音の巡拝塔。地蔵尊は延享3年(1746)に念仏講で建てたもの。かつて酪農が盛んだったことから、正木岡乳牛組合によって昭和29年(1954)に牛魂碑が建てられている。

(2) 八幡神社

(2) 八幡神社

 社伝では、延元2年(1337)に再建され、戦国時代の里見義弘のときに家臣正木大膳の祈願所になったと伝えている。手水石は天保12年(1841)、石灯籠は天保14年(1843)のもの。

(3) 大日さま

 中央に大日如来を祀る岩屋。本尊の石仏は峯岡の蛇紋岩で中世のもの。上半身が欠けた同質の像もある。中世の五輪塔の笠もあり信仰の古さを伝えている。地元ではお産の神様とされ、そこの抜けた袋が安産祈願で奉納されている。また文政元年(1818)建立の光明真言塔の塔身があり、元名の石工吉五郎作。享和元年(1801)に没した了覚法印の供養塔になっている。

(4) 切通しの巡拝塔と庚申塔

(4) 切通しの巡拝塔と庚申塔

 稲原集落との境の切通し。中央は青面金剛を刻んだ庚申塔、左右に地蔵像がある。左の地蔵尊は秩父34か所と坂東33か所の観音順礼塔で、浄心という人が安永10年(1781)に建てたもの。

(5) 寒念仏塔

(5) 寒念仏塔

 丸彫りの延命地蔵尊を乗せた寒念仏塔で、正木村中沼集落の若者たちが享和3年(1803)1月に建立した。寒念仏は、寒中に30日間巡回しながら念仏を唱えて功徳を得る修行のひとつ。北東の高台はヨウギ山(要害山)と呼ばれ、戦国時代の砦跡と考えられる。ここは那古・正木から平久里へ抜ける街道沿いであり、交通路を監視する位置にある。

(6) 御狩(みかり)の出羽三山碑

 弘化4年(1847)の出羽三山碑。正木村御狩集落の久兵衛など5人と上堀村の3人が登拝した記念碑。横に祀られている新しい石宮は眼の神様。

(7) 観音堂

(7) 観音堂

 墓地に入ってすぐの場所にある馬頭観音像は伝蔵・あさ夫妻によるもので、江戸時代の百観音(西国・秩父・坂東札所)の巡拝塔。地蔵菩薩を乗せる塔も同じ百観音を供養するもので、清蔵が文化4年(1807)に建立した。ほかに諸国順礼をしていた石見国浜田(島根県浜田市)の覚道が安政5年(1858)に建てた廻国塔で、右面を地元の清造ら3人が四国八十八か所と百観音を巡拝した供養塔にする石塔があったが、今は見当たらない。裏山の山頂に前方後円墳とされる塚があり、大塚山古墳と呼ばれている。

(8) 諏訪神社

(8) 諏訪神社

諏訪神社 文化財マップ

 平安時代の中頃、たびたびの津波に村人が困っていたところ、延喜元年(901)に信濃国諏訪社の御霊が現われ祈願をすると波が治まったことから、村の鎮守にしたという伝説がある。旧郷社。里見氏からは3石の社領を与えられていた。境内の石灯篭は文化7年(1810)に上・下・向の三組が奉納したもので、石工は江戸の与七。狛犬は明和9年(1772)、手水石は寛政11年(1799)のもの。文久3年(1863)の芭蕉句碑「此神も いく世か経なむ まつの花」は、地元の宗匠高梨文酬が組織する俳諧グループ丘連(神主の関風羅ほか17名)が建立した。そばの石宮は浅間様で地元の富士講グループである山三講のもの。社殿右には関東大震災の復興記念碑があり、書は元長尾藩士の熊沢直見による。

正木本郷(まさきほんごう)エリア

(9) 外輪堂(亀ヶ原下台)

 亀ヶ原区下台集落の共同墓地。入口に天保2年(1831)の出羽三山碑がある。伝蔵ほか16人が登山した記念碑。代参講の人々と忠蔵が一両ずつ出して修覆を行ったことも彫られている。墓地には中世の五輪塔の笠や宝篋印塔の笠があり、古い集落であることがわかる。

(10) 西光寺

(10) 西光寺

 曹洞宗で、山号は正木山という。江戸初期の里見忠義のときに本山の真倉慈恩院に寺領の一部として与えられていたことが古文書にみえる。山門をくぐってすぐ丸彫りの地蔵尊がある。嘉永5年(1852)に名主鈴木甚左衛門が願主となって奉納したもので、作者は安房の代表的な石工武田石翁。ほかに年不詳の出羽三山碑、元禄8年(1695)・寛政1年(1789)の六地蔵がある。墓地には長尾藩士木村慶寿(明治18年没)の墓がある。ほかに台湾征討に参加して明治28年(1895)に台北で戦死した近衛野戦砲兵生稲良吉(22歳)、明治37年に日露戦役で出征し清国田義屯で戦死した陸軍歩兵一等卒木村昇蔵(24歳)・病死した陸軍騎兵二等卒山下平助(22歳)、大正13年に日本海越前海岸で座礁殉難した特務艦関東の海軍一等機関兵庄司喜一(21歳) の4基の忠魂碑がある。

(11) 熊野神社

(11) 熊野神社

 江戸初期の元和元年(1615)に再建されたと伝えられる。かつて近くに修験の医王山峯野院があり別当として管理していた。手水石は文久3年(1863)のもので、社殿の向拝龍彫刻は峯野院と医師戸倉玄雄の奉納、獅子は地元の吉津屋・辰巳屋・川名の加渡屋の女性たちが奉納している。峯野院跡には念仏講中の男女22名によって建立された万治2年(1659)の念仏講供養塔がある。

(12) 日露戦役戦没者忠魂碑

 正木出身の陸軍歩兵上等兵庄司久蔵の忠魂碑。日露戦役に出征して戦地の伝令として活躍し、明治37年(1904)10月の清国沙河の会戦のとき、指揮官の江橋中尉を介抱中に戦死したとある。文はその江橋中尉が書いている。

(13) 狐塚の石

(13) 狐塚の石

 この石は、そのむかし諏訪神社と那古寺がケンカをして、諏訪神社が那古寺に向かって投げた石が途中で落ちたものだそうである。耕地整理のため元の場所から西へ移動してしまっている。那古小学校西側にある白岩弁天の前には、那古寺が諏訪神社に向かって投げた石があったという。

(14) 薬師道の道標

(14) 薬師道の道標

 天保6年(1835)建立の道しるべ。「横山やくしみち」とあるのは正木の谷奥にある横山の薬師堂への順礼道を示している。方向をさし示す指は薬師様の手だという。横山の薬師堂跡には同じ年に建てられた石造の十二神将像が6体残されている。また堂跡には鉱泉が湧く井戸があり、明治の初め頃には肌に塗ると腫れ物に効くといわれ、大正時代には湯治場として賑わっていた。


監修 館山市立博物館
作図:愛沢彰子