上真倉・下真倉

現在は住宅地が広がる上真倉(かみさなぐら)と下真倉(しもさなぐら)は、館山城の西側に位置し、城下の寺町と豊かな農村というふたつの性格を備えていました。古代から開発されてきた穀倉地帯を歩いてみましょう。

上真倉(かみさなぐら)

(1)法蓮寺

法輪山法蓮寺という日蓮宗のお寺。江戸時代までは下真倉村に属していた。天正4年(1576)に記された法蓮寺文書によれば、文永元年(1264)、日蓮聖人が説法した三原(南房総市和田町)の地頭・池田和泉守の館の草庵を元に建立され、永禄7年(1564)に北条氏が館山平野へ攻め込んだ際には、那古寺や三芳(南房総市)の延命寺と共に大きな被害を受けたという。現在の鐘楼堂は天保11年(1840)に青柳出身の34世日童が建立したもので棟札が伝わる。墓地には牛頭観音3基や昭和3年(1928)の汐入川溺死者供養碑、関東大震災で亡くなった女性の墓などがある。牛頭観音は大正14年(1925)に長須賀と塩見の人物が建てた2基と、昭和11年(1936)に府中の人物が建てた1基で、牛の姿が彫られている。このほか、境内には玉姫稲荷社と竜神堂が祀られている。

(2)妙善寺跡

正光山妙善寺という日蓮宗のお寺があった場所。江戸時代までは下真倉村に属していた。法蓮寺31世である正光院日到の隠居寺として建てられたと伝わる。法蓮寺の山門前にある「正光山妙善寺」の石柱は宝暦10年(1760)の建立。その左の題目塔は日到が宝暦7年(1757)に建立したもの。

(3)長泉寺

深広山長泉寺という浄土宗のお寺。江戸時代には下真倉村に属していた。墓地には上真倉・下真倉で商店を営んだ加藤兼松氏の事績を記した、昭和8年(1933)建立の青柳堂開祖記念碑がある。本堂前にある六地蔵は享保3年(1718)の建立。以前は「オコモリ」が行われ、近所の女性がおにぎりなどを持って集まった。この寺の周辺が青柳という字で、下真倉村の中心部だった。

(4)日枝神社本宮跡

日枝神社の旧社地と伝えられ、以前は祭礼の際に幟旗を立てていた。幟旗が劣化したため、平成30年(2018)に「日枝神社本宮跡」と刻まれた現在の石碑を建てた。近くに「オサンノウ」という屋号の家があり、敷地内の椎の木はご神木と伝わる。江戸時代までは下真倉村に属していた。

(5)馬頭観音・牛頭観音

右に馬頭観音、左に大正9年(1920)の牛頭観音が並んでいる。牛頭観音は5頭の牛の名前・命日とともに、牛の姿が刻まれている。

(8)字一向堂(あざ いっこうどう)

下真倉の中にある上真倉地番の飛び地。元和元年(1615)、門雪という僧によってこの地に建立された草庵「一向堂」が、上真倉にある浄土真宗の宗真寺の前身と伝わる。その後、寛永2年(1625)に上真倉村を支配した旗本・石川政次が、門雪に土地を寄進し、現在地に宗真寺が建立されたと伝わる。

(9)辻の堂

辻という字にある墓地で、以前は建物があり「お堂」と呼んでいた。寛政5年(1793)の下真倉村絵図(青柳区蔵)では「地蔵堂」と記されている。敷地内には中世の五輪塔の笠石や宝珠が確認できる。向かって左側に並ぶ地蔵のうち右から2体目は、全国を廻国して大乗妙典という経典を奉納した肥後国玉名郡中村(熊本県)の人物が建立したもの。この他、安政2年(1855)の馬頭観音もある。

(10)ヤマンカミ(山の神)

辻の集会所を「ヤマンカミ(山の神)」と呼んでいる。以前は山の上にあったが、お参りするのが大変なため、昭和の初め頃に現在地へ下ろしたという。

(11)長光寺

富士山長光寺という曹洞宗のお寺。『安房志』によれば、天文元年(1532)に一峰桂寅が開山した。天正17年(1589)に里見義康より高10石を寄進され、江戸時代にも引き続き朱印地10石を有していた。寛政10年(1798)に火災で焼失し、享和2年(1802)に本堂を再建したという。その後、火災により本堂が焼失し、平成5年(1993)に再建された。安房郡札観音巡礼の16番札所。館山市腰越から移転してきたとの伝承もあり、腰越の滝川沿いに長光寺という字がある。寺の向かい側の墓地には「当寺開基」として里見義康と忠義の文政5年(1822)の供養塔があるほか、歴代住職の墓や、延宝元年(1673)の如意輪観音像や延宝8年(1680)の地蔵像などがある。

(12)地蔵堂

お地蔵様を祀るお堂。墓地には文政7年(1824)に観音講中が建てた三面八臂の馬頭観音像や文化年間の廻国供養塔がある。

(13)浅間宮

上真倉のうち戸倉の人々で管理しており、毎年7月1日に山頂までの参道を掃除する。山頂に浅間宮と明治36年(1903)の手水鉢がある。浅間宮の左手に石尊と呼ばれるお宮と天保2年(1831)の手水鉢があり、小御嶽と思われる。鴨川の富士講の行者・栄行真山が明治8年(1875)にまとめた安房国浅間宮百八番の第48番にあたり、拝み歌「三国を皆白妙の身になして今あら玉の富士の山もと」を記した奉納札がお宮に納められている。昭和12年(1937)建立の鳥居があったが、令和元年房総半島台風で倒壊した。

(14)庚申塚(こうしんづか)

戸倉橋の東側にある塚。「オコウシンヤマ」と呼ばれている。塚の上には元禄4年(1691)の庚申塔と月山・湯殿山・羽黒山の出羽三山碑がある。現在は、オマツリなどは行われていないという。

(15)東田遺跡

汐入川南岸の標高10~14mの河岸段丘に位置する古墳時代の遺跡。国道410号バイパス建設工事に先立って調査が行われ、汐入川から用水を引き入れたと思われる溝状の遺構が発掘された。溝状の遺構から大量の土師器(はじき)や土製模造品などが出土し、祭祀が行われたことが分かる。この他、竪穴住居跡や倉庫と考えられる高床建物跡も確認されている。

下真倉(しもさなぐら)

(6)長須賀条里制遺跡

汐入川北方の館山平野に広がる古代律令制に基づいた条里制遺跡で、国道410号バイパス工事に先立って調査が行われた。調査の結果、弥生時代から古墳時代にかけて営まれた水田や、古墳時代後期の水路、木製品を利用した取水口などが見つかった。古墳時代後期の水路やため池からは大量の破砕された土師器や須恵器、小銅鏡、子持勾玉などが出土しており、水辺の祭祀が行われたと考えられている。

(7)日枝神社

下真倉の鎮守で、江戸時代には山王社、明治期には三輪神社と称していた。寛政5年(1793)の下真倉村絵図(青柳区蔵)では現在地に描かれ、同年の下真倉村明細帳(川名家文書)には「氏神山」と記載がある。江戸時代には加藤家が神職を勤め、現在も「ネギドン」という屋号で呼ばれる。境内には文政10年(1827)奉納の手水鉢や大正3年(1914)奉納の狛犬、昭和3年(1928)に広島県西條町の人物が奉納した石灯籠などがある。本殿右裏手の石碑は、関東大震災の被災に対する天皇からの下賜金を感謝し、大正14年(1925)に建立されたもの。裏面に下真倉区の被害状況が記される。この他、境内には稲荷社が祀られている。


館山市立博物館(2022.11.20作成)
千葉県館山市館山351-2 TEL 0470-23-5212