神話に残る安房開拓の祖、忌部氏ゆかりの地を歩いてみましょう。
安房神社周辺エリア
(1) 安房神社
安房国の一宮で、祭神は天太玉命。古代の安房開拓神話に登場する、安房忌部氏の祖天富命が、祖神をまつったものといわれる。平安時代の「延喜式」に記される式内社で、古代祭祀の地に建てられている。神社所蔵の木造狛犬や木碗・〇箱・高杯・鏡などは市指定文化財。境内に海蝕洞窟遺跡があり、ここから出土した人骨が、忌部塚として神社の東方にまつってある。
(2) 小久保ヶ谷やぐら
やぐらは中世の武士のお墓。地元では「五輪様」とよばれている。5基のうち1基に五輪塔と宝篋印塔の断石が見られる。近くに、木の洞にまつられた天神様がある。
(3) 千祥寺
真言宗の寺院。平安時代始めの木造如来坐像(県指定文化財)や、南北朝期の地蔵菩薩像がある。境内には、天和2年(1682)に領主の非法を訴えて処刑された7人の農民を供養したという七人様供養碑や、享保14年(1729)の廻国供養塔、五輪塔の断石などがある。
(4) 大沢墓地
個人の家の墓地だが、寛政11年(1799)の廻国供養塔や文政元年(1818)出羽三山碑などがある。
(5) 巴橋
市内で唯一残された、石積み式のアーチ橋。明治39年(1906)の建設。
(6) 弁天岩
大木の根本に、文政8年(1825)の廻国供養塔や明治42年(1909)の出羽三山碑がある。
(19) 大鑑院
曹洞宗の寺院。山号を冨士山といい、背後の山にはセンゲンサマがまつられている。長須賀の石工鈴木伊三郎による石造十二神将像は、文化12年(1815)の作。
相浜エリア
(7) 蓮寿院
浄土宗の寺院。境内には、元禄16年(1703)の大地震で亡くなった地元の人たちを供養するために、正徳5年(1715)に建てられた名号石塔がある。寺院は正徳4年(1714)に創建された。墓地には長尾藩士の墓や、江戸時代の出羽三山碑などがある。墓地の南西に隣接して、玉杉稲荷とよばれる稲荷様がまつられている。
(8) 相浜神社
江戸時代には、感満寺という修験の寺院があった場所。その後波除神社となり、大正年間に楫取神社を合祀して相浜神社となった。境内には、江戸時代の石灯籠や手洗石のほか、5個の力石がある。五十貫目のものには「深川不動丸船頭 西宮伝七奉納」とある。
(9) 海蝕洞穴
海水の浸食によってできた洞穴。元禄地震で隆起する前は、このあたりまで海だった。
(10) 楫取神社旧地
江戸時代には香取神社といい、村の氏神だった。現在は相浜神社に合祀されているが、毎年3月28日の相浜神社例祭では、お船とよばれる山車が渡御する。日本橋の魚河岸による、明治32年(1899)の石垣寄付記念碑がある。
(11) 富崎小学校
富崎村の初代村長をつとめた神田吉右衛門をたたえた、明治44年(1911)の記念碑がある。撰文は諸井華畦という女流の漢学者。ほかに明治39年(1906)の日露戦役記念碑や、昭和11年(1936)の二宮尊徳像がある。
布良エリア
(12) 富士見の地蔵
もとは岩屋になっていたところにまつられていた。板状の石に五輪塔を浮き彫りにした、中世の石造物がある。
(13) 駒ヶ崎神社
安房開拓神話に登場する忌部氏の天富命が、四国の阿波から渡ってきて最初に上陸したとされるのが、駒ヶ崎の海岸である。この神社の祭神は忌部氏と直接関係するものではないが、漁民の信仰を集めている。
(14) 青木繁と「海の幸」
東京美術学校を卒業した洋画家の青木繁は、明治37年(1904)、布良の小谷家に逗留して構想を練り、名作「海の幸」(重要文化財)を制作した。昭和37年(1962)にはこれを記念して、阿由戸浜の西に碑が建てられている。
(15) 布良崎神社
安房忌部氏の祖である天富命が上陸した地として、この天富命をまつった神社。境内には、地元と江戸日本橋の人が願主となって奉納した元治2年(1865)の石灯籠や、文政9年(1826)の鳥居が柱のみ残されている。末社として、大山祇神社、浅間神社などがある。
(16) 本郷の墓地
享保8年(1723)同行中の奉納による石造の大日如来像や、文政8年(1825)の庚申塔、館山の石工俵光石による酒樽型の墓石があるほか、宝篋印塔の断石がある。また日清・日露戦争に従軍し、旅順攻撃に参加して生還したのち、海上で遭難死した沼野熊吉の記念碑(明治41年)もある。
(17) 龍樹院
曹洞宗の寺院。向拝の龍の彫刻は、江戸時代末の後藤流彫刻師、後藤恒徳によるもの。境内には文政4年(1821)の二十三夜塔などがある。
(18) 富崎地区公民館裏の墓地
殉難警察官の慰霊碑があり、毎年ここで慰霊祭が行われる。明治12年(1879)にコレラ対策にあたって感染し、殉職した警官や、大正14年(1925)に腸チフスに感染した警官などの碑が並んでいる。
監修 館山市立博物館