館野地区腰越・広瀬

古代の安房国府や戦国時代の稲村城に隣接し、中世には荘園となった館野地区の腰越と広瀬。中世の経済活動の痕跡や鎌倉文化との結びつきを中心に、古代から連綿と続いた歴史を探訪しよう。

腰越・広瀬 文化財マップ

狐塚(きつねづか)エリア

(1) 狐塚(きつねづか)

 腰越青年館の横に小さな高まりがある。狐塚と呼ばれる塚だが、かつてはもっと大きな塚だった。このあたりの地名も狐塚という。昔はここから北へ向かっていくつもの塚が並んでいたのだというが、ほとんどが畑として削り取られてしまった。土地の人がむかしこの青年館横の塚を掘ったところ何も出てこなかったそうである。また狐塚に関する地元の伝説に、戦国時代に里見義豊がおこした天文の内乱のとき、義豊と義堯のいとこ同士が犬掛で大合戦をしたあと、最後の決戦の地になったと伝えられている。

(2) いなり様(狐塚)

 ここは広瀬の字北狐塚といい、この南側に字南狐塚があって、腰越の字狐塚に続いている。この塚は「いなり(稲荷)様」と呼ばれるが、腰越から続く狐塚のひとつであるという。砂丘の先端に立地し、塚の周囲では土師器・須恵器の破片が確認されており、古墳時代の遺跡と考えられる。

広瀬(ひろせ)エリア

(3) 八幡神社

(3) 八幡神社

 八雲神社(牛頭天王)と湯沢神社(湯沢権現)を合祀している。境内には中世宝篋印塔の笠石がみられる。ほかに阿弥陀如来の種字カーンを刻んだ文化4年(1807)の念仏供養塔、寛保元年(1741)の青面金剛像の庚申塔、山三講のマークが入った水向けのある浅間祠などが、戦後に区内各地から移されているほか、2個の力石と広瀬の住吉屋夫人が奉納した天保9年(1838)の手水石がある。

(4) 釈迦寺

(4) 釈迦寺

 臨済宗の寺で万徳山釈迦寺といい、江戸初期の元和年間に広瀬の徳山居士という人物が開基したという。開山は道硯和尚。稲地区玉龍院の末寺だった。境内には享保5年(1720)に観音講仲間が造立した如意輪観音像、享保16年(1731)の地蔵尊、安永8年(1779)の三界万霊塔がある。本堂前にある塔は鎮譲謙東堂大和尚の供養塔で、明治23年(1890)に建てられたもの。文を書いたのは北条にいた学者の森岡半圭。この和尚は尾張国丹羽郡の人で、明治17年(1884)の火災で焼失したこの寺を住職として再興したことから、檀家・信者の感謝の気持ちで建てられた。

(5) 杉間の堂(祖師堂)

(5) 杉間の堂(祖師堂)

 広瀬の字杉間にある日蓮宗のお堂。南無妙法蓮華経の題目塔は祖師堂三世が明治2年(1869)に建立。明治12年の唱題一千部之塔は西浦賀の人の奉納。館山城跡で掘り出されたという観音菩薩像も祀られている。この堂の裏に見える山すその集落を市場といい、右手の田を字戸井場という。戸井場は問場のことで、中世の運送業者がいた所のこと。この周辺が中世の荘園だった頃に流通の中心地だったことが考えられる。また奈良の都から出土した735年の年貢の荷札(木簡)にすでに「安房国広湍(ひろせ)郷」の地名がある。

(6) 林信太郎の碑

(6) 林信太郎の碑

 大正3年(1914)に自宅を時習舎という私塾にして、高等小学校を終えた少年たちに勉学の場を提供していた広瀬の林信太郎の顕彰碑。白浜の恩田仰岳のもとで漢学を学び、上京して東京日日新聞の記者をしたあと、帰京して塾を開き四書五経や英語・数学・習字などを教えていた。門人の少年たちは家業の農業を手伝いながら二年間の教育を受けた。昭和21年(1946)に信太郎が没した頃に閉校。碑の裏には200人の子弟の名がある。

腰越(こしごえ)エリア

(7) 御嶽(みたけ)神社

(7) 御嶽(みたけ)神社

 江戸時代に名主を務めた飯田家がこの地へ土着したとき、延命院の鬼門除けとして祀ったのが始まりと伝えられている。社殿左側に摂社として熊野権現が祀られているが、そのむかしは府中の台地区に近い上ノ台(クマンダイともいう)というところにあり、腰越のもとの鎮守だったといわれている。境内には中世五輪塔の宝珠や笠石がみられる。手水石は嘉永2年(1849)と文久元年(1861)に若者中が奉納したもの。ここから南に向かっての直線道はむかし祭りで競馬をしたところだといい、付近をバンバダイ(馬場台)という。

(8)  滝川用水と箱橋

(8) 滝川用水と箱橋

 箱橋の下に滝川堰があるが、これは正徳年間(1711~1712)におきた万石騒動の頃、北条藩主屋代氏の用人(側近)として権勢をふるった川井藤左衛門がつくった用水堰と伝えられている。藤左衛門は広瀬から府中方面へ流れていた山名川の流れを滝川に付け替え、滝川堰から用水路を浚渫して国分郵便局裏の堰まで引き、国分や高井・上野原・長須賀の水田の灌漑にあてた。用水は川井堀とよばれ、上流の滝川沿いに築いた土手は川井土手という。また腰越の田の排水路となる小川(こがわ)や、堰上の遊水地「袋」、用水から溢れる余水を滝川に落とす「ハヤブテ」もつくって用水整備をおこなっている。その後滝川堰の水門が箱枠の構造になったことから、近くに橋をかけると箱橋の名で呼ばれるようになったという。

(9) 鎌田淵(かまたぶち)

 天文の内乱最終決戦の際、里見義豊の家臣鎌田孫六が敗色濃厚となった義豊を介錯したあと、敵を二人抱えて滝川の澱みに飛び込み道連れに自害したという伝説がある。そこを鎌田淵という。場所についてはここのほかに、少し下流で川が北進をはじめる滝川地区の澱みとする説もある。

(10) 延命院

(10) 延命院

 御嶽山延命院といい、真言宗。御嶽神社との関係が窺われる。本尊の地蔵菩薩像は安房国百八箇所地蔵尊巡礼の百八番札所になっている。また安房郡札観音巡礼の十番札所だった円塔院の観音菩薩像も祀っている。境内には天保7年(1836)の手水石のほか、72貫・40貫・20貫の力石が並べられている。力石はほかの村で持ち上げ勝負をして勝って持ってきたものだと古老が伝えている。墓地には岩の露頭があり五輪塔の浮彫りをともなう中世のやぐらがある。また関東大震災での腰越地区被害を記録した震災記念碑、寛政8年(1796)の出羽三山碑などがある。

(11) 円塔院跡

(11) 円塔院跡

 真言宗の寺があったところ。墓地に比較的大きな中世の五輪塔があり、戦国時代の「天文」という年号が刻まれている。ほかにも五輪塔の宝珠や水輪の石がある。また天保5年(1834)に没した龍斎義山了哲處士の墓がある。庄司龍斎といい、腰越生まれ。江戸へ出て幕府同心となって陽明学や医学を学び、帰郷後は医師兼儒者として白子(南房総市)で塾を開き100人の弟子に教授した。息子の容徳は江戸で一橋家に仕えている。墓は門人や江戸の友人たちによって一周忌に建てられたものである。享年61歳。


監修 館山市立博物館
作図:愛沢彰子