太平洋に面した平砂浦砂丘の奥、小さく開けた谷にも古代から近世にかけて営まれた人々の生活の痕跡がある。太平洋と東京湾が分岐する場所 平砂浦の昔の姿を思い浮かべてみましょう。
佐野エリア
(1) 館山海軍砲術学校跡戦車橋
房南中学校から奥が、昭和16年(1941)6月に開校した館山海軍砲術学校の跡地。陸戦での砲術実地訓練を必要とした海軍が、横須賀の海軍砲術学校から独立させたもので、砲術演習に適した広大な平砂浦に近い佐野の地が選ばれて開校した。陸戦科・対空科・化学兵器科があり、昭和20年7月の閉鎖まで6期にわたって「鬼の館砲」と呼ばれるほどの厳しい訓練が行われた。入口にある橋は当時のもので、ここに学校の正門があり、この道の突き当りには館砲神社があった。戦後できた房南中学校の校舎は昭和44年まで砲術学校の兵舎が使われていた。
(2) 同校飛行特技訓練プール
パラシュートの降下訓練用に使われたプール。高さ20mの飛び込み用の鉄塔が横にあったという。
(3) 同校釜場レンガ壁
訓練生が食事をした「烹炊所(ほうすいじょ)の釜場」だった建物。つまり調理場のボイラー室。赤レンガの壁だけが残されている。
(4) 佐野洞穴出土人骨弔魂碑(ちょうこんひ)
大正15年(1926)に建てられた弔魂碑。関東大震災で壊れた地区内の道を修理するため、補修用の石材を地区内の岩見堂跡の崖で掘っていたところ、古い時代の人骨10体分が出土した。人骨は研究のために当時の千葉医科大学に納められたが、地元ではその経緯を記録し人骨を弔うためにこの碑を建立した。岩見堂跡地は標高28mで海食洞穴があったと思われ、古墳時代の墳墓だったのではないかと考えられる。
(5) 熊野神社
佐野地区の鎮守。境内に文化7年(1810)の灯篭がある。狛犬は昭和13年(1938)のものだが、陸軍近衛歩兵と海軍機関兵(20歳)として出征する2人の縁者の無事を祈願して奉納したもののようで、「神□□て願いは久し二十年」と刻んである。楠見の俵石工の作品。本殿の額は神道家で内務大書記官の桜井能監(のうかん)の書とある。社殿左の石宮は、天保2年(1831)に越後から来た行者量海が本願となり乙浜村の元宮太平らが奉納したもの。
(6) 千葉院(せんよういん)
正式には金剛山千葉院という真言宗の寺院。安房国108か所地蔵巡りの第94番札所で、ご詠歌に「ちりつもる 池のみくづをおしわけて 心もひらく せんようの寺」とある。入口には安永3年(1774)・寛政12年・文化元年・天保3年・天保9年・明治12年(1879)の出羽三山碑および、行者蓮利(文化5年没)の日本廻国塔が並んでいる。万延元年(1860)に亡くなった住職成憲の墓は筆子中で建立したもので、成憲が寺子屋を開いて近隣の子弟(筆子)たちに読み書きを教えていたことが分かる。数か所ある墓地の入口には江戸中期の如意輪観音や享保19年(1734)の六地蔵、参道入口に安政2年(1855)の六地蔵があり、いずれも女人講によるもの。ほかに文化13年(1816)の手水石、安政2年の水向などもある。上段の無縁墓地には館山藩士夏目敬愛の墓(明治8年没)がある。本堂前の手水石は文化7年(1810)のもの。
(7) 平和祈念の塔
開校50周年の平成3年(1991)6月に、館山海軍砲術学校跡地の一画にかつて学校があったことを示すために建てられた記念碑。碑は砲身をかたどっている。四一式山砲や20センチ・ロツ弾ほか硫黄島の遺品などが展示されている。多数掲げられた標識は戦地を示している。
◆ 佐野川のオオウナギ<市指定天然記念物>
ニューギニア・インド洋・アフリカ南東部・オーストラリア・台湾・朝鮮などに分布する熱帯性のウナギで、体長2mにも達する。佐野川は水量が安定し、清浄なことから、オオウナギの生息地最北限かつ最東限とされる。大きなものでは昭和33年6月に、体長118cm、胴囲26.7cm、体重4.3kg、生後5年とされるオオウナギが採捕された。その後昭和36年に50cmと1m程度のウナギが最後の目撃となっている。
藤原エリア
藤原の集落は、そのむかし運動公園に近い谷藤原の集落から、神社や寺がある丘陵端の現在地へ出てきたと伝えられている。
(8) 藤原神社
藤原地区内の荒神社・山王宮(日枝神社)3社・山神2社を合祀した神社。毎年8月10日の例大祭では、伊勢神楽の流れをくむ獅子神楽が行われ集落を巡舞する。館山市無形民俗文化財。境内にある手水石は文政6年(1823)に氏子が奉納した。記念碑は平砂浦の開墾記念碑で、明治43年(1910)建立。平砂浦砂丘の飛び砂に悩まされ、砂と戦いながら田畑を維持してきたこの地域の人々の苦労を伝えている。江戸時代の絵図では、隣村佐野集落の谷の奥に砂山が描かれているほど。撰文は安房郡長太田資行、文と題字の書は神戸村長岡崎孝右衛門である。
(9) 藤栄寺
藤林山藤栄寺といい、不動明王を本尊とする真言宗の寺院。本堂の観音像は安房郡札辰年観音の第22番札所で、ご詠歌は「老いの身に 苦しき沙の藤原や 遠き歩みも 後の世のため」。地蔵菩薩坐像は膝前で着衣を垂らす法衣垂下のスタイルで、室町時代末の作。安房国108か所地蔵巡りの第95番札所でもある。本堂向拝正面には、金剛宥性が安房国地蔵尊108か所を開いた明治5年(1872)に、地元の人々が奉納した額があり、ご詠歌は「めぐり来て 見ればたなびくむらさきの 雲にゆかりの 藤原の寺」とある。手水石は文化7年(1810)に奉納されたもの。石灯篭は嘉永2年(1849)の奉納で、楠見の石工田原長左衛門の作。
(10)観音堂跡墓地
天下泰平と村内安全を祈願する天保3年(1832)の供養塔があり、文化13年(1816)の光明真言塔も村内安全を祈願している。文化7年(1810)の馬頭観音もある。また両親菩提と子孫繁栄を祈願して光明真言と念仏を百万遍唱えた文政5年(1822)の供養塔が個人の墓地にある。
(11) 館山海軍砲術学校化学兵器実験施設
平砂浦は砲術学校の演習地であったが、学校から離れたこの場所では化学兵器科による毒ガス戦の訓練が行われたといい、化学兵器科には理工科系の学生が多く配属されたという。残されているコンクリートの施設は化学兵器の実験施設とみられている。隣接して近年までガス講堂と呼ばれる赤レンガ建物があった。
(12) 平砂浦砂防林造成記念碑
砲術学校演習地として砂丘に戻っていた平砂浦は、戦後、西岬・神戸両村が砂防林保護組合を結成して現在の姿の砂防林に造成した。県との協力で昭和24年(1949)から10年の歳月をかけて昭和33年に完成し、南房パラダイス前のフラワーラインに記念碑が建てられている。
監修 館山市立博物館
作図:愛沢彰子