西岬地区香・塩見

平城宮跡で発見された古代の荷札に、1250年ほど前に奈良の都へアワビを運んだ賀宝(かほ=こう)と塩海(しおみ)の人々がいたことが書かれていた。古代から海とかかわってきたこの土地の歴史を歩こう。

西岬地区香・塩見 文化財マップ

香(こうやつ)エリア

(1) 浅間(せんげん)神社

(1) 浅間(せんげん)神社

 香の鎮守で、富士山の神が祀られている。毎年5月31日が「お山」と呼ばれる山開きで、山頂の奥の宮にはだしで登る風習がある。参道には嘉永元年(1848)の石灯篭があり、社前には地元で地引網を営業していた田村網の弥惣兵衛が寛政13年(1801)に奉納した手水石と、田村網で働いていた若者たちが天保12年(1841)に奉納した手水石がある。裏山山頂には奥の院が祀られ、天保11年(1840)の手水石がある。また浜には神社へ向いた鳥居と文政10年(1827)の石灯篭がある。

(2) 祭面(まつりめん)の庚申塔(こうしんとう)

(2) 祭面(まつりめん)の庚申塔(こうしんとう)

 「庚申青面金剛童子」の文字と三猿が刻まれている庚申塔。享保3年(1718)のもので、与兵衛夫妻はじめ8軒の夫婦で建立した。むかしは南側の高台にあったが、穴から落ちてしまったので、与兵衛屋敷の現在地に立て直したものだという。昔は「お猿さんのお籠もり」という庚申講が行われていた。

(3) 宝篋印塔(ほうきょういんとう)と要害(ようがい)

(3) 宝篋印塔(ほうきょういんとう)と要害(ようがい)

 市指定文化財になっている応永8年(1401)の宝篋印塔をふくめて、2基の宝篋印塔と5基の五輪塔がある。裏山中腹のヤグラにあったが、戦時中に軍の施設建設が行われて下ろされた。里見の武将5人の墓という伝説がある。裏山はヨウガイ(要害)と呼ばれ、里見の出城と伝承される戦国時代の城跡。里見家落城のとき2人の武士が逃げてきて切腹したという伝説をもつ中世の五輪塔が、別のお宅の庭の崖にも据えられている。

(4) 金剛寺

 真言宗で大明山という。寛政11年(1799)と文化元年(1804)の光明真言塔が目に付くが、無縁仏のなかに香谷村女念仏仲間19人が建立した如意輪観音像がある。元禄前後のものであろう。

(5) 地蔵堂(上の堂)

 墓地には念仏講による元禄13年(1700)の地蔵尊像や、同講の女性12人が元禄7年(1694)に建立した如意輪観音像がある。如意輪観音像には香村を「かう村」と書いているのが注目される。ほかに寛政8年(1796)の出羽三山碑がある。

(6) 下の堂

 宝永4年(1707)に地元の鈴木七右衛門(蓮求)が日本廻国を成し遂げた記念の廻国塔があり、三界万霊塔・名号塔を兼ねている。また明和5年(1768)に大坂の人が廻国中に建てた廻国供養塔や、豊後国国崎郡(大分県)の人のために地元の弥惣兵衛らが建てた文政11年(1828)の「南無阿弥陀仏」の名号塔がある。

(7) 香掩体壕(えんたいごう)跡

(7) 香掩体壕(えんたいごう)跡

 館山海軍航空隊の航空機格納庫としてつくられた施設で、宮城から香にかけては40か所ほどあったという。現在もはっきりと残されているのは、ここと宮城地区の赤山裏だけである。

塩見(しおみ)エリア

(8) ナナツボラ(横穴墓・ヤグラ)

(8) ナナツボラ(横穴墓・ヤグラ)

 坊山の南側にナナツボラと呼ばれる7つの横穴が並んでいる。ボラとは洞(ほら)穴のこと。古墳時代の横穴墓としてつくられ、南北朝から室町時代頃にヤグラとして改造され再利用されたもの。一番左のヤグラには3基の五輪塔が陽刻され、ほかのヤグラにも五輪塔の痕跡が残るものがある。中央部には窟堂として利用された痕跡もみられる。

(9) 善栄寺

(9) 善栄寺

 真言宗で、安養山という。本尊はあざとり阿弥陀として信仰される阿弥陀如来。門前の石造地蔵尊は寛政元年(1789)の厄除地蔵、その向いにある万延元年(1860)のお百度石は楠見の田原長左衛門作。阿弥陀様へのお百度参りのために建てられたもの。終戦後に地区内にあった真言宗の宝蔵寺を合併している。安房百八か所地蔵の第九十九番札所で、明治6年(1873)の御詠歌額が松の堂に残されている。

(10) 御嶽(みたけ)神社

(10) 御嶽(みたけ)神社

 日本武尊を祀る塩見の鎮守。本殿の彫刻は後藤三四郎作とあり、千倉の彫刻師後藤義光の師匠である江戸の後藤恒俊と思われる。境内にある岩はご神体岩と伝えられている。山王権現などの石宮の周囲には倒壊した文政11年(1828)の鳥居が残されている。

(11) カナクライシの橋

(11) カナクライシの橋

 一般的にはビーチロックといい、サンゴ礁が発達する海で潮間帯に多く見られる石。炭酸カルシウムによるセメント作用で海の堆積物が固まったもので、板状の石灰質砂礫岩である。短期間で固まるので櫛などの人工物が混ざっていたりする。わが国の約200地点に分布しているビーチロックのうち93%はサンゴ礁の発達海域にあるそうだ。塩見ではカナイシ・カナクライシと呼び、切り出したものを二か所で橋として使っていたが、一か所は大水で流されてしまった。

(12) 大屋敷墓地

 地蔵堂の墓地。無縁墓のなかに廻国納経修行塔がある。広島県中野村の女性の墓石で、明治43年(1910)に37歳で没している。巡礼中にこの村へ滞在して亡くなったようで、明治29年(1896)に亡くなった弟妹と思われる二人の少年少女の法名もある。

(13) 松の堂

(13) 松の堂

 江戸時代の幕府老中で奥州白河藩主の松平定信が訪れ、臥龍松と名づけた巨松があった観音堂。安房郡札観音の三十番札所で、「霧の海 霞に浮かぶあま人の むりの願いも浜の観音」が御詠歌。松は東西に50mも枝を広げていたが、大正の大震災頃から枯れはじめ、戦争中に消滅した。名勝として知られていた。跡地には旧道から松の堂への入口に建てられていた道標が移設されている。明治26年(1893)のもの。墓地には文化7年(1810)、尾張国日間賀島(愛知県知多郡)の八幡丸船員の墓がある。この地で亡くなったのだろう。

(14) 中原淳一詩碑

(14) 中原淳一詩碑

 少女雑誌の編集や人形作家・挿絵画家、またファッションデザイナーなど多彩な活躍で知られる中原淳一が、かつてここ塩見で療養していた。昭和36年(1961)に初めて訪れ、昭和58年(1983)に館山で永眠した。70歳。詩碑は平成14年に建立された。

(15) 出羽三山碑

(15) 出羽三山碑

 同じ家3軒で建てた出羽三山碑が2基あり、大日如来像が乗る方は寛政6年(1794)のもの。ほかに念仏講による文政7年(1824)の「南無阿弥陀仏」の名号塔と、文化4年(1807)頃の子育地蔵尊が並んでいる。地蔵菩薩は子供を抱き、その足元に賽の河原で石を積む子供の姿があるもので、子供を救う地蔵尊の姿が刻まれている。

浜田(はまだ)エリア

(16) 高性寺(こうしょうじ)

 真言宗のお寺で、智福山高性寺という。本尊は虚空蔵菩薩。むかしは浜田の鎮守船越鉈切神社の別当寺だった。神社の祭礼の時には鞨鼓舞の行列がこの寺から出発していた。

(17) 弁天祠

(17) 弁天祠

 水神としての弁財天を祀る塚で、この場所は堰から流れる川沿いに位置していた。


監修 館山市立博物館
作図:愛沢彰子