八幡・湊・鶴ヶ谷

古代には安房国の主要港「淡水門(あわのみなと)」があり、中世以降は安房国総社鶴谷八幡宮を中心に開けた地域。八幡宮と鶴ヶ谷の陣屋跡を中心に、槙の生垣に囲まれた地域の歴史を探訪しよう。

八幡(やわた)エリア

(1) 鶴谷(つるがや)八幡宮

 安房国の総社とされ、例祭の9月14・15日には安房国内から古社10社の神輿が渡御して八幡の祭がおこなわれる。もとは安房国府が所在した三芳村府中に鎮座していたとされ、鎌倉時代に頼朝か現在地に遷したという説と、室町時代の里見義実によって遷されたという説がある。八幡の祭は府中にある元八幡神社でお水取りをしてから始ることになっている。里見氏の篤い信仰によって保護をされ、政治的にも利用された。江戸時代の社領は171石余で、別当の那古寺が管理していた。
<境内奉納物の詳細は「鶴谷八幡宮マップ文化財ガイド」参照>

(2) 千灯院 

(2) 千灯院 

 真言宗の寺院。江戸時代には八幡宮の領地から6石の配当を受け、社僧が住して仏事で八幡宮に奉仕した寺。八幡宮の別当を務めた那古寺の配下でもあった。境内には廻国修行者の鈴木七兵衛が建てた寛政5年(1793)の廻国供養塔や、八幡村の念誦講で光明真言を一億回唱えたことを記念して建てた天保12年(1841)の一億万遍念誦塔がある。

(3) 槙の生垣

(3) 槙の生垣

 神社周辺の古い集落地域では、屋敷の周りが背の高い槙の生垣で囲われ、毎年八幡の祭礼前に行なわれる刈り込みによって常に美観が保たれている。ホソバと呼ばれる槙は千葉県の県木で、房総半島が自生の北限である。塩に強く砂地にも適した木で、密集した枝によって防風・防火にも効果的であることから、海が近い安房地方では生垣によく使われている。八幡はとくに迫力のある歴史的集落景観が保たれている。

(4) 阿弥陀堂 

 現在は八幡地区の墓地のお堂になっているが、明治になるまでは八幡神の本来の姿である阿弥陀如来を祀る本地堂であり、鶴谷八幡宮の付属施設として社殿の隣にあった。仏が人々を救うために神の姿を借りて現れるという本地垂迹説では、八幡神の本地は阿弥陀如来である。また堂内には、かつて八幡宮一の鳥居と二の鳥居の間にあった弁天社に祀られていた弁財天像も祀られている。戦国期末の里見時代のもの。

湊(みなと)エリア

(5) 薬師堂 

(5) 薬師堂 

 寛永21年(1644)に薬師堂へ奉納された鰐口がある。山下郡湊村と書かれた江戸初期のもの。参道入口には順礼講中間で寄進した地蔵像が祀られている。墓地には正徳元年(1711)の北条藩万石騒動の際に刑死した三義民のひとり湊村名主秋山角左衛門の墓や、元文6年(1741)に明神丸乗船中に遭難したと思われる7人の供養碑がある。

(6) 六地蔵の道標 

(6) 六地蔵の道標 

 正木寄りの三叉路に、年号はないが「右正木 左やわた」と刻んだ道標がある。むかしは道の中央に建っていたそうである。北条と湊の境の十字路にも「北まさき 東こくぶん寺 西やわた」と刻んだ同様の道標がある。ともに四角柱で子どもの戒名を刻んだ六地蔵になっている。はやり病で死んだ子どもたちの供養のために建てられたと伝えられている。

(7)子安神社 

(7)子安神社 

湊の鎮守。天正18年(1890)には子易大明神として記録されている。修験の徳蔵院が代々別当として神社の管理をしていた。子安の名から安産の信仰があり、底の抜けた袋が奉納されている。境内には「青面金剛」の文字を刻んだ庚申塔がある。寛政12年(1800)の庚申の年に湊村の庚申講で建立したもの。手水石は文政13年(1830)に相州西浦賀の鈴木弥吉という人物が奉納している。境内周辺は古墳時代から平安時代の土師器が出土するところで、向原遺跡と名づけられている。

鶴ヶ谷(つるがや)エリア

(8) 稲荷遺跡(北条)

 この周辺は古墳時代から奈良・平安時代の土師器などの土器が出土する遺跡。北条村北町中で奉納した稲荷の石宮を祀っている。

(9) 庚申塔(八幡)

(9) 庚申塔(八幡)

 安房高の生垣のなかに、青面金剛の像を刻んだ庚申塔が祀られている。安永5年(1776)の申年に八幡の彦右衛門が建立したもの

(10) 稲荷神社(北条鶴ヶ谷)

(10) 稲荷神社(北条鶴ヶ谷)

 長尾藩の陣屋が鶴ヶ谷につくられた際、旧領地の駿河国田中(静岡県藤枝市)の城内から移されてきた。稲荷は藩主本多氏の鎮守で、廃藩後も旧藩士が葵恩会を結成して神社を維持してきた。境内には大砲の碑や明治3年に横須賀の大工松蔵が奉納した手水石がある。

(11) 長尾藩陣屋跡(北条鶴ヶ谷)

 安房高校周辺から六軒町の諏訪神社までの地域に、明治3年(1870)、長尾藩4万石の陣屋がおかれ藩士たちの居宅も建設された。稲荷神社の向かいに藩主邸、その海寄りのほぼ陣屋中央に藩の役所がおかれた。藩庁があった場所は正方形に区画されており、幕末には海岸警備の任にあたった武蔵忍藩や岡山藩が陣屋をおいていた場所である。<詳細は「長尾藩ゆかりの地マップ」参照>

(12) 長尾藩士共同墓地(八幡)

(12) 長尾藩士共同墓地(八幡)

長尾藩士の墓地として開発されたところで、長尾藩家老の遠藤俊臣、勘定奉行熊沢菫、藩校日知館の監察雨宮信友などの藩重役はじめ、剣術師範小野成顕・成命父子など50家におよぶ藩士の墓がある。そのほか西南戦争で戦死した八幡の小林真吉の碑もある。また安房高校寄りには八幡地区の墓地があり、八幡の村用掛として明治初期の地租改正に尽力した岩崎彦右衛門の墓碑などがある。


監修 館山市立博物館