古くからの特色ある神事が現在も伝承されている洲宮と茂名。路傍の石宮や石仏など、地域の人々に信仰されてきたさまざまな神仏にも目を向けながら田園風景を歩いてみましょう。
洲宮(すのみや)
(1)洲宮神社
洲宮の鎮守。安房神社の祭神天太玉命(あめのふとだまのみこと)の后神(きさきがみ)である天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)を祀る神社。元日の朝にその年の豊作を願って行われる御田植(みたうえ)神事は、市の無形民俗文化財に指定されている。拝殿向かって左の社は子安神社で、手水鉢(ちょうずばち)は文化元年(1804)に洲宮村の友野吉助が奉納したもの。本殿の脇には3基の石宮が祀られており、中央と右端の石宮は旧社地である魚尾山(とおやま)から移動させたもの。左端の小さな石宮は、山の上に祀ってあったものを移動させた「山の神」。境内には2つの力石があり、大きい方には「四拾五貫目」(約169kg)とあり、「当所若者中」が奉納したことが刻まれている。
(2)薬王院
洲宮神社の隣にある真言宗のお寺で、大明山薬王院という。縁起には、洲宮神社の祭神天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)の子孫で神主家の人物が僧となり、永正元年(1504)に薬師如来像を彫刻して庵を結んだのが当寺の始まりと記されている。石段の左に馬頭観音3基が祀られており、中央は天保10年(1839)9月、右端は明治12年(1879)に建立されている。境内にある手水鉢は慶応2年(1866)7月に洲宮村の人びとによって奉納されたもので、願主である川口清右衛門・渡辺六良右衛門のほか施主19名の名が刻まれている。3基並んだ僧侶の墓のうち右端は薬王院中興2世の隆中という僧のもの。刻まれた履歴によれば隆中は竹原村須田氏の出身で、字(あざな)を英浄といった。16歳で仏門に入り、京都の智積院(ちしゃくいん)で修業した後、24歳で地元に戻った。高井の善浄寺の僧となった後、当寺に移ったが、病を患い亡くなったという。墓は明治27年(1894)の建立で、隆中が読んだ漢詩が刻まれている。
(3)不動堂と墓地
墓地の傍らに建つお堂で、不動明王像と両脇侍(わきじ)が祀られている。江戸時代に薬王院の東側にあった不動堂を移転させたものか。以前は茅葺きのお堂で中に土間があったが、平成16年(2004)に建て替えた。不動明王像は明治33年(1900)に修理されており、黒塗りの厨子はそのときに渡辺太右衛門が自ら製作し奉納したもの。渡辺太右衛門は洲宮村の宮大工で、藤原義重とも名乗った。不動堂の脇に置かれた手水鉢は慶応2年(1866)に「当村中」(洲宮村の人びと)が奉納したもの。墓地には、大工渡辺太右衛門が明治24年(1891)に自ら建てた墓があり、履歴が刻まれている。棟梁として多くの弟子を抱え、社寺や民家の建築を行い、彫刻の技も優れていたという。墓に刻まれた肖像画は、沼出身で館山藩に仕え、明治以降は安房神社の神官になった絵師の川名楽山が描いている。墓地の入り口には、江戸池之端の直心法師(俗名吉兵衛)の姿を刻んだ天明8年(1788)の石像がある。
(4)魚尾山(とおやま)
「どうやま」とも呼ばれる。洲宮神社はかつてこの山の上に鎮座しており、鎌倉時代の文永10年(1273)の火災で焼失した後に現在地へ移転したと伝わる。魚尾山の袋畑遺跡からは古墳時代の土製模造品が出土しており、祭祀の場であったことが分かる。
(5)子守り地蔵
民家の前にあるお地蔵様。昔、お婆さんが子供を連れてよくお参りに来ていたとの話が伝わっており、子守り地蔵と呼ばれている。
(6)浅間様(せんげんさま)
山の上に石宮が置かれており、浅間様と呼ばれている。現在、山開き行事は行われていないが、毎年7月の第1日曜日に地元の人々が草刈りを行っている。石宮は明治12年(1879)に洲宮村講中の人々によって建立されたもの。
(7)明神山(みょうじんやま)
毎年8月に行われる洲宮神社の祭礼の際、神輿がこの山に登り、浜降(はまくだり)神事(お浜入り)が行われる。かつては藤原の獅子神楽も同時に奉納された。
茂名(もな)
(8)下のお墓
江戸時代にお堂があった跡地で、現在は墓地のみが残っている。入口付近に古い石碑が並んでおり、最も大きい如意輪(にょいりん)観音像は貞亨4年(1687)に建立されたもの。左端の「才兵衛殿墓」は、脇に「この墓を参詣する者、その家繁昌」と刻まれている。
(9)成願寺(じょうがんじ)
真言宗のお寺で、普門山(ふもんざん)成願寺という。掲げられているご詠歌の額は、安房国八十八か所弘法大師巡礼のもので、「皆人(みなひと)の まいりてやがて 成願寺 来世の道を たのみおきつつ」と記されている。元文元年(1736)に根本の僧智円らが奉納したもので、当寺は第9番札所であった。お堂の裏手には、江戸の東叡山(とうえいざん)寛永寺の役僧になった石井良左衛門が文化10年(1813)に六十六部廻国巡礼を行ったことを記念した供養塔がある。建立は明治8年(1875)とあり、その子孫が建てたものであろうか。境内には力石が置かれている。
(10)要害道(ようがいみち)
茂名から館山地区の沼へ山越えして、宮城へと抜ける山道。里見氏が館山城を居城としていた時代に、布良で獲った鮮魚を城まで運ぶ際にこの道が使用されたことから、「魚買道(うおかいみち)」とも呼ばれる。館山城への鮮魚の運搬に苦労したことから、茂名の人々は里見氏が転封となった際に喜んだという話が伝わっている。
(11)上のお墓
共同墓地の入り口に、江戸時代の石仏などが並んでいる。1番左の地蔵は、享保12年(1727)正月に茂名村の「順礼講仲間」が建立したもの。中央は文化7年(1810)9月の建立で、「四国西国秩父坂東百八十八番供養塔」と刻まれている。行者の藤右衛門が、四国の弘法大師88か所と西国33か所・秩父34か所・坂東33か所観音の合計188か所の巡礼を終えた記念に奉納したもの。右隣に建つ安永5年(1776)の廻国供養塔には越後国蒲原郡下条(げじょう)村(新潟県加茂市または阿賀野市)の三助という俗名とその戒名(家山興国信士)が刻まれており、巡礼の途中に茂名村で亡くなった人物を供養するために建てられたものである。
(12)十二所神社(じゅうにしょじんじゃ)
茂名の鎮守。毎年2月の祭礼は里芋祭りと呼ばれ、国の重要無形民俗文化財に指定されている。階段上の灯籠一対は天保3年(1832)9月に村内の矢田太郎右衛門・和田吉良兵衛・矢田安右衛門・石井弥五右衛門を世話人として奉納されたもので、他に願主21名が名を連ねている。なお、火袋(ひぶくろ)には大正12年(1923)の大震災で倒壊した際に修繕した旨が刻まれている。拝殿向かって左の社は金毘羅社で、村内の他の場所から移したもの。その右には岩壁をくり抜いて石宮が祀られ、下には正方形の手水鉢が置かれている。手水鉢は文化2年(1805)に村内の石井藤右衛門・同谷右衛門が奉納したもの。その脇には明治25年(1892)に氏子らが社殿の修復を行った際の石碑がある。
(13)荒神様(こうじんさま)
2つの石宮が並んでおり、荒神様と呼ばれている。荒神は屋内で火やかまどの神として祀られるほか、山の神などとして屋外で祀られることも多い。現在も毎年3月に宮司を呼んでお祀りをしている。
館山市立博物館(2016年11月6日作成)
館山市館山351-2 ℡:0470-23-5212