なだらかな海岸線が美しい西岬地区北東部。縄文人の生活を伝える鉈切洞穴から足をのばして歩いてみましょう。
なたぎりエリア
(1) 船越鉈切神社(ふなこしなたぎりじんじゃ)(浜田)
海神である豊玉姫命をまつった神社で、参道を登った奥に鉈切洞穴(県指定史跡)があり、この中に本殿がある。鉈切洞穴は、およそ二万年前の沖積世初期にできた海蝕洞穴。縄文時代は住居として使われたらしく、土器や鹿角製の釣針・銛、魚の骨や貝などが発掘されている。古墳時代に墓として利用され、その後信仰の場に変わった。鳥居から参道を入ると、右手の壁面にヤグラが見える。内部には宝塔が浮き彫りにされている。拝殿周辺には、元禄6年(1693)に領主の旗本・石川政住が奉納した灯籠や、集落内の別の山から移してきた浅間様の祠などがある。宝物として独木舟や、元禄10年(1697)に紀州漁民が奉納した鰐口などがあり(いずれも市指定文化財)、海の神であることを伝えている。毎年7月14~16日の祭礼では雨乞いの芸能であるかっこ舞(市指定文化財)が演じられる。
(2) 海南刀切神社(かいなんなたぎりじんじゃ)(見物)
浜田の船越鉈切神社とは、かつてひとつの神社として信仰されていた。本殿の裏に2つに割れたような大きな岩があり、神様が浜から上陸したときに手斧で切り開いて道をとおしたという話や、紫ノ池に住む大蛇がわるさをするので、池から水を抜くために神様が鉈で岩を切ったなどといった話が残されている。境内にある灯籠は、長須賀の石工鈴木伊三郎が天保7年(1836)に彫ったもので、狛犬は、楠見の田原長左衛門が天保10年(1839)に彫ったもの。拝殿向拝にある龍や獅子の彫刻は、明治の彫工・北条の後藤忠明による。社殿内には、現代の日本画家・岩崎巴人画伯が描いた絵画もある。浜田と同様に、7月の祭礼でかっこ舞が演じられる(市指定文化財)。
(3) 鳩山荘(見物)
元首相の鳩山一郎氏の別荘だったところで、昭和35年(1960)に国民宿舎としてオープンした。正面玄関脇に、旧鳩山邸の井戸が残されている。鳩山一郎氏の胸像もあるので、お見逃しなく。
見物エリア
(4) 孝子新四郎の碑(見物)
太田新四郎は江戸時代の塩見の人。両親に対する孝行から、寛政7年(1795年)に領主から褒美を与えられた。ここは昭和57年に西岬小学校として統合されるまで、東小学校があった場所。
(5) 東伝寺(見物)
曹洞宗の寺院。江戸時代は海南刀切神社の別当寺だった。本堂内陣の板戸に、幕末の北条の絵師・渡辺雲洋の松図があり、これと対になった板戸絵は、館山藩の絵画教授だった沼出身の絵師・川名楽山が明治18年(1885)に描いたものである。また日本画家の岩崎巴人画伯も、60枚の天井絵などを描いている。また墓地には、幕末に海岸警備を担当した白河藩士とその家族64名の供養塔がある。白河藩はのちに桑名(現在の三重県)に転封された。
(6) 西岬村役場跡(見物)
明治22年(1889)に西岬村ができてから、昭和29年に館山市と合併するまで村役場があった場所。西岬の地名はこの明治22年以来のもので、香から坂井に至る14カ村が現在も西岬地区と呼ばれる。
(9) 金山神社(早物)
早物の鎮守で、鉱山や金属技工の神様とされる金山彦がまつられている。境内に万延元年(1860)の手洗石がある。神社に隣接する観音堂には、文政8年(1825)銘の六十六部廻国供養塔がある。
加賀名エリア
(7) 阿弥陀堂(加賀名)
別名キリシタン灯籠といわれる織部灯籠の竿部分が、お堂の中にまつられている。戦国時代の文化人として知られる古田織部が創案した灯籠の形であることからこう呼ばれる。竿部分が十字架に見えたり、浮き彫りにされた像をキリストやマリア像にみたてたり、あるいはローマ字を組み合わせたような彫刻がされていたりといった特徴から、キリシタンの礼拝物という説があるが、一般的には五輪塔が変化したものという見方がされている。現在は安産の神様として信仰されているが、県内では市川市のものとここの例しか確認されていない。
(8) 熊野神社(加賀名)
加賀名の鎮守。境内にヤグラがあり、中に一石で作られた五輪塔がある。灯籠には嘉永2年(1849)の銘がある。
監修 館山市立博物館