太平洋に面した山際にある布良と相浜は耕地が少なく、海の恵みを生活の糧としてきた純漁村です。海岸段丘の上段と下段に展開する集落相と豊かな文化を探訪しましょう。
相浜(あいのはま)エリア
(1)旧富崎小学校
明治7年(1874)に布良学校・相浜学校として開校し、富崎小学校として現在地に移転したのは同27年。平成29年(2017)3月で閉校となった。校庭に校歌と応援歌の碑が建てられている。校舎入口前には富崎村の近代化に貢献した初代村長神田吉右衛門の碑(大正2年=1913年建碑)と、昭和11年(1936)の二宮金次郎像がある。道路に面して日露戦役の戦没者13名・従軍者71名の名を記した明治39年(1906)の記念碑がある。
(2)楫取(かんどり)神社跡
香取神社・神取神社とも書き、宇豆毘古命(うずひこのみこと)を祭神とする相浜の鎮守だった。入口に相浜神社に合碑された大正6年(1917)に建設された楫取神社旧跡碑がある。相浜神社の例祭では、かつて御船「波除丸」が渡御した場所で、安房神社の浜出神事の際にはここの神輿が先導した。明治32年(1899)に東京日本橋の魚河岸が石垣を築いた記念碑があり、かつて漁村相浜から江戸の魚河岸へ魚が送られていたことを伝えている。
(3)松崎弁天(厳島(いつくしま)神社)
海を見下ろす弁天様で、安永元年(1772)に村の漁師中で奉納した手水石と、享和3年(1803)に松屋勘太郎が奉納した手水石がある。狛犬は相浜神社と同じ慶応元年(1865)のもの。
(4)相浜神社
江戸時代までは不動尊を本尊にする嚢莫山怛多羅院感満寺(のうまくさんだったらいんかんまんじ)という修験の寺だった。修験道廃止によって明治10年(1877)に波除(なみよけ)神社となり、大正6年(1917)に楫取(かんどり)神社を合祀して相浜神社に改名した。境内に江戸魚問屋などが奉納した文政13年(1830)の石灯籠(楠見の石工 田原長左衛門作)、慶応元年(1865)の狛犬、享和2年(1802)と弘化5年(1848)の手水石、天保11年(1840)の出羽三山碑、文政5年(1822)の青面金剛像の庚申塔のほか、複数の力石がある。
(5)正覚山蓮壽院(しょうかくさんれんじゅいん)
浄土宗で、安房円光大師25霊場の第4番礼所。元禄地震後の正徳4年(1714)に、大神宮から移転再建したという。境内に元禄地震の大津波の犠牲者86名を供養する正徳5年(1715)の名号塔(みょうごうとう)がある。ほかに文政7年(1824)の出羽三山碑、文政8年(1825)の地蔵尊がある。
(6)鮪延縄船(まぐろはえなわせん)・安房節(あわぶし)発祥の地碑
江戸時代中期に富崎で鮪延縄漁がはじまり、明治時代にはヤンノーと呼ばれる大型の改良鮪延縄船を建造し、沖泊まりで操業して豊漁を続けたが、事故も多発し後家船(ごけぶね)とも呼ばれた。寒い時期の漁の士気を高めるために歌われた労働歌が安房節である。
布良(めら)エリア
(7)富士見の地蔵
もとは岩屋であったという。地蔵尊に並んで、板状の石に五輪塔を浮き彫りにした中世の石造物がある。
(8)駒ヶ崎神社
大海祇(おおわだつみ)と厳島(いつくしま)大神を祀り、「ジョウゴサマ」と呼ばれる。強い漁師の信仰があり、新造船は神社前の海で安全豊漁の祈願を行う。社殿の裏に海食洞穴があり、縄文時代の石棒が発見されている。
(9)幕末砲台跡
幕末に東京湾への外国船侵入を警備する台場が置かれていた。弘化4年(1847)から嘉永3年(1850)の間に武蔵国忍(おし)藩が築き、大砲が3門配備された。嘉永6年(1853)に岡山藩へ引き継がれ、安政5年(1858)の開国で廃止。男神山(おがみやま)の先端を今も「オデイバ」と呼ぶ。
(10)青木繁「海の幸」記念碑
昭和37年(1962)に青木繁の没後50年で建てられた記念碑。現代建築の第一人者である生田(いくた)勉東大教養学部名誉教授が設計したもの。「海の幸」は阿由戸(あゆど)の浜の情景で、四国から渡海した天富命(あめのとみのみこと)の上陸場所と伝えられている。
(11)能忍寺
本尊は薬師如来で、南房総市白浜町の薬師寺に伝来した像が移座(いざ)した。平安時代の作品。安房自然村を開設した井手口正が開いた禅道場。ここからの景色は「ちば眺望100景」に選ばれている。境内に高田敏子の詩碑があり、「布良海岸」を詠んでいる。
(12)布良海軍見張所跡
大山の山頂に明治27年(1894)から大正10年(1921)まで海軍の望楼(ぼうろう)(監視や気象情報を収集する)が設置された。明治10年から明治15年までは中央気象台の布良測候所となり、昭和17年(1942)に再びレーダーを供えた海軍の見張所となった。見張所の地下壕の中には水墨画家岩崎巴人(はじん)の禅画が描かれている。現在は海上保安庁の白浜送信局。
(13)向(むかい)の墓地(女神(めがみ)堂)
回向(えこう)文を刻んだ安政4年(1857)の名号塔(みょうごうとう)や、列強が中国に進出した明治33年(1900)の北清事変に従軍し、翌日に戦地で病死した海軍三等水兵星の林右衛門の碑などがある。本尊は如意輪観音。
(14)小谷家(こたにけ)住宅 (市指定文化財)
明治中期の上層漁家で、分棟型民家の系譜をひく建物。明治期の小谷喜録家は村の漁師頭や救難所看守長を勤めるなど村の指導層だった。明治37年(1904)に洋画家の青木繁が2か月逗留した建物で、重要文化財「海の幸」を構想したことで知られている。
(15)富崎村道路元標(げんぴょう)
大正8年(1919)の旧道路法と大正11年(1922)の内務省令によって各町村に設置された道路の起終点を示す石柱。花崗岩(かこうがん)製。富崎村と他町村の距離を測る際の基準である。この道が富崎村のメイン道路だった。
(16)布良崎(めらさき)神社
安房神社の祭神天太玉命(あめのふとだまのみこと)の孫である天富命(あめのとみのみこと)を祭神とし、安房神社が奥殿で布良崎神社が前殿だったと伝えられる。江戸時代までは蔵王権現(ざおうごんげん)と呼ばれ、明治初年に布良崎神社と改称した。明治17年(1884)に郷社に昇格。境内には天保7年(1836)に木高氏が奉納した手水石や、布良漁港の修築に尽力した満井武平(県議・村長)の頌徳碑(しょうとくひ)などがある。石垣の石は伊豆から漁船で運んだという。
(17)本郷の墓地(観音堂)
享保8年(1723)に出羽三山へ登拝した同行20人が奉納した大日如来像や、文政8年(1825)の庚申塔、享和2年(1802)の百観音霊場の巡礼供養塔、大正10年(1921)に楠見の石工俵光石が制作した酒樽型の墓石などが点在している。ほかに日清・日露戦役に従軍し、旅順から生還後に出漁中の明治41年(1908)に遭難死した沼野熊吉の碑がある。墓地に中世の宝篋印塔の笠石や塔身を見ることもできる。
(18)海命山龍樹院(かいめいさんりゅうじゅいん)
曹洞宗で、延命寺15世の鉄州武真和尚が元禄年間に中興開山した。向拝(ごはい)の龍は江戸後藤流の後藤恒徳(つねのり)の作で、房州後藤流の後藤義光の兄弟弟子にあたる。境内に文政4年(1821)の二十三夜塔、明治27年(1894)の日清戦争従軍中に病死した神田道之助の碑がある。
(19)神田町の墓地
殉職警察官4名の慰霊碑が並び、毎年供養祭が行われる。コレラが大流行した明治12年(1879)に、布良で防疫活動中に感染殉職した左右田(そうだ)豊巡査の碑は、古碑が剥落したため新設されたもの。土屋勇次巡査は滝田村で腸チフス防疫活動中の大正14年(1925)に感染殉職した。
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