典型的な安房の小さな谷(やつ)集落のなかに、古代から中世・近世の歴史があふれています。
南条(なんじょう)エリア
(1)八幡神社
祭神は応神天皇(繁田別命(ほんだわけのみこと))で、疫病を払う神である。戦国時代に南条城主鳥山弾正左衛門(とりやまだんじょうさえもん)時貞が崇敬し、居城の東方に社殿を造営し守護神とした。社殿は大正12年(1923)に当地の素封家(そほうか)小原金治の寄進で建て替えられた。
(2)東山横穴群
南条字東山(ひがしやま)の八幡神社を取り巻く山原に、開口した大小38個の横穴がある。いずれも古墳時代の横穴墓で、昭和初期の神社改築の際、数個の横穴を崩したと言われている。
(3)南条城跡
曲輪(くるわ)・堀切・竪堀(たてほり)・土塁等の遺構が残る戦国時代の城跡。山頂には首洗い井戸の伝承もある。里見義豊の正室だった城主鳥山弾正左衛門時貞の娘が、天文3年(1534)の内乱で義豊が従兄弟の義堯に滅ぼされた際、実家の南条城に逃れ、城東方の山中で自害したという。そこに乳母(うば)が一渓寺を建て供養したといい、姫塚が残されている。
(4)沼サンゴ
房総半島の館山市周辺に形成された縄文時代のサンゴ礁の化石群。有名な市内沼地区だけでなく、南条でも八幡神社鳥居右側で、池の中の島にサンゴの化石がみられる。館山市の天然記念物。
飯沼(いいぬま)エリア
(5)女堰(おんなぜき)
汐入川の水を堰止めて用水路へ流し、南条・上真倉(かみさなぐら)・下真倉の水田を灌漑している。宝永元年(1704)には修理をしているので、それ以前からある堰。この堰名には悲しい伝説がある。この川は何度塞(せ)き止め工事をしても、水流のために破壊された。そこで村人たちは巫女(みこ)に聞いたところ、「女性を堰止めに使うべし」とのこと。村人たちは村の女性を人柱にすることができず、巫女を捕らえて川に投げ入れ、堰を完成させることができたと伝えられている。
(6)内田の地蔵尊
市内山際の石龕(せきがん)内に祀られる地蔵尊は、安永9年(1780)に飯沼村の吉兵衛と村中で建立したと記されている。
(7)熊野神社
祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)。境内には万延元年(1860)の手水石のほか、明治39年(1906)の古峰講(こみねこう)碑、山包講(やまつつみこう)の仙元宮(せんげんぐう)、秋葉大権現、金毘羅大権現の石宮がある。神社当番は3軒一組で3年交代。草刈りや10月の祭礼の準備、お供え用の餅など1軒ずつ交代で行う。
(8)堂ノ下(どうのした)やぐら
集会所裏のやぐらに安永8年(1779)の出羽三山供養塔のほか、出羽三山関連の亨保19年(1734)の大日如来像が祀られている。やぐらの正面と両脇の壁面には、風化が著しいが五輪塔9基の浮彫が確認できる。内1基は、他で例を見ない蓮華座(れんげざ)をともなう五輪塔で、室町時代の陽刻五輪塔である。外は近世前期のスリムな造形をしている。
古茂口(こもぐち)エリア
(9)福生寺(ふくしょうじ)
飯富山という曹洞宗の寺院で、本尊は聖観世音菩薩。西国の守護大名大内義弘(1399年没)の子孫無々遠公(むむえんこう)大和尚が、永正15年(1518)頃、薩摩国から来て開いた。開基は里見義豊の妻である福生寺殿一渓妙周大姉とされ、歴代住職の墓塔と並ぶ房州石の大きな五輪塔がその墓だという。里見家・徳川家からは寺領2石が与えられた。
(10)田仲の馬頭観音群
福生寺前の笠沼川沿いに馬頭観音等が10基並んでいる。平成の圃場(ほじょう)整備で、古茂口に散在していたものを寄せた。馬頭観音像を刻んだものは文政2年(1819)・嘉永元年(1848)など6基ある。
(11)泉福寺
浄土山という曹洞宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。寺伝では慶長15年(1619)の創建で、開山は位置有全慶(いちゆうぜんけい)と伝えるが、中興開山であろう。境内には中世の五輪塔があり、里見氏からは南条村で3石余の地を与えられていた。賛同の地蔵菩薩には石工が「元名(もとな)村周治」とあるので、安房の名工武田石翁(せきおう)の作である。
(12)御嶽(みたけ)社
賛同を約200m登った山頂に御嶽社がある。笠部に講名「ヤマ左」と記された明治13年(1880)の石宮を中心に、小型の3基の石宮と木曽御嶽講供養塔が平坦な場所に半円状に祀られている。かつて麓には禊(みそ)ぎが行われた池があり、石宮の前でお籠りが行われたという。手水石は古茂口の中先達(ちゅうせんだつ)大内権右衛門が明治13年(1879)に奉納した。
(13)小谷(こやつ)の地蔵尊
旧吉亭前の祠に小谷組の地蔵尊像2体と如意輪観音像・十一面観音像が祀られている。その片隅には中世の五輪塔の宝珠1点と宝篋印塔の返花座(かえりばなざ)2点も確認される。行事は現在行われていない。
(14)阿弥陀堂
参道の石段中程の左手に、宝暦3年(1753)の地蔵菩薩像と宝暦4年(1754)の巡礼講中9人による聖観音菩薩像がある。お堂左手奥の小高い場所には、享保19年(1734)から文政2年(1891)までの大日如来像9体、安政7年(1860)と大正10年(1921)の出羽三山供養塔がある。
(15)込縄(こみな)の地蔵尊
元禄6年(1693)と明治24年(1891)の地蔵尊2体があるが、いずれも墓碑。毎月24日の地蔵尊の縁日には近隣からの参拝がある。
(16)いぼとり地蔵尊
県道芥子(かいし)橋から谷奥に入って約200mの丘陵端につづら折りの細い参道がある。7m登った所に祀られている石像が、3名の願主名が記された寛政2年(1790)の地蔵尊で、由緒は不明だが、いぼとり地蔵という名前で近隣の信仰が篤く、参道はいつも清掃されている。
(17)日枝神社
祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)と誉田別命(ほんだわけのみこと)。境内には大正9年(1920)の鳥居や嘉永3年(1850)の手水石などがある。社殿左手には明治14年(1881)に村内安全を祈願した古峯講供養塔があり、天保13年(1842)の石灯籠、嘉永3年(1850)の手水石もある。その片隅には安山岩系の石棒が祀られている。拝殿の「山王宮」の扁額は明治13年(1880)の奉納。当地には獅子舞保存会による市指定の神楽(かぐら)が伝承され、正月の春祈祷(はるきとう)や10月の祭礼で奉納される。かつては春祈祷の際に、前年に新築や出産・結婚など慶事のあった家に呼ばれ獅子舞を舞っていた。
(18)青面金剛(しょうめんこんごう)像
日枝神社後方山中の頂上付近に、六臂(ろっぴ)にそれぞれの道具を持ち2匹の邪鬼(じゃき)を踏みつけた青面金剛像がある。安政4年(1857)、吉左衛門が願主となって奉納した庚申塔(こうしんとう)である。「村中手之内」と記される例は珍しいが、古茂口村中で奉納したという意味だと思われる。
(19)芥子胡(けしご)の地蔵尊
芥子胡組では毎年8月24日地蔵盆で福生寺の住職を招きお経と卒塔婆(そとば)をあげる。組内の新ボンの家でもお参りし、お供えをあげる。祠内には安永9年(1780)の如意輪観音像も安置されている。
(20)延寿院跡
廃寺となった真言宗の大日山延寿院跡で、正徳元年(1711)と享保6年(1721)の住職の墓が古い。ほかに当院中興2世の隆晃権大僧都の寛政9年(1797)の墓や、文政8年(1825)の不動明王像、文政13年(1830)の地蔵尊を載せた墓など、住職の墓が残る。
(21)浅間様
山三講(やまさんこう)の富士仙元宮(せんげんぐう)の石宮で、慶応3年(1867)に建立された。別当延寿院と名主勘左衛門ほか、組頭・先達(せんたつ)世話人等7名の名がある。大正初め頃まで講があり、昭和30年代までにはお正月にお参りが行われていたという。石段の参道が今も残されている。
作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・鈴木以久枝・佐藤博秋・佐藤靖子・吉村威紀 2018.10.27作
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