4.東洋絵画共進会への出品

 室町時代末期から江戸時代を経て、明治時代中期までの400年間にわたる日本絵画史上最大最長の流派である狩野派の大原則は、徹底した画法の遵守であった。狩野派は質画(天性の質絵)より、学絵(学ぶ絵)を重んじ、後世にその道を残すことを第一義とした。家法を尊び、家系の維持を重視したことは幕藩体制に即応し、狩野派は全国へと伝播していったのである。

 ところが、明治維新といった社会の一大変革期に、それまでの体制中に形式的に生き延びてきた画家の多くは再編成の憂き目にあい、大名はじめ有力者の庇護によって成り立っていた画家達は生活の基盤を奪われ、また欧化政策のなかで方向を見失い虚脱化していった。

 しかし明治6年(1873)のウィーン万博で日本の美術工芸品が好評を得ると、それ以降政府も欧化政策だけでなく、伝統文化の保存と復興に力を割くようになる。そうしたなかで開かれたのが、内国勧業博覧会や、「絵画共進会」である。内国絵画共進会は、明治15年(1882)と17年に開かれているが、絵画だけの共進会ということで維新以来鳴りをひそめていた伝統派の画家達が勇躍して檜舞台を目指したものであった。

 そして明治19年(1886)4月に東京上野公園で、東洋絵画共進会が開かれている。橋本雅邦らが設立したこの会には、洋画を除く1,600人の画人の作品3,200点が出品された。審査の結果一等は該当者なし、二等が13人、三等は31人、四等が198人、計242人が受賞している。楽山は三等褒状を授与され、その時の作品として「龍驤虎視図」(図版13)が伝えられている。

第8図 第二回内国絵画共進会出品願

第9図 東洋絵画共進会三等褒状