楽山の生涯 
1.江戸での絵画修行 

 川名楽山は、安房郡沼村(館山市沼)の川名六左衛門の次男として、天保3年(1832)5月に生まれた。祖父は沼村名主を務め、父も館山藩主稲葉正巳の信頼を得て、大番頭として大坂在番のときには供をしている。楽山は幼名を常吉といった。通称録助、名は敬信で、後に敬事と改めた。楽山は雅号で、明治14年(1881)頃からは楽翁と称するようになる。

 3男1女の4人兄弟で、幼い頃から絵を描くのが好きだった楽山は、16歳のときには祖父の肖像画(図版1)を描いている。叔父で保田村(鋸南町保田)昌龍寺住職の大慧も絵を描く人であった。その影響があったのかもしれない。

 やがて江戸銀座役人の北川武八の嗣子となり、狩野派の絵師でもあった武八(号等楫)や、同じく狩野派の岡島素岡に絵を学んだ。嘉永3年(1850)の5月から9月には、幕府御用絵師狩野探龍のもとで、幕府絵画方として日光東照宮の修繕にあたったこともある。

第1図 川名楽山  個人蔵