このシリーズでは、かつて安房地方や館山市が江戸・東京と海路で結ばれていたことを物語る文化財を紹介しています。水産物を中心に房州の産物が取引されていたことを背景にした神仏への奉納物や、江戸・東京へ出て成功した房州の人々やその交流を背景にした江戸職人の製作物など、痕跡は数多くみられます。それらの文化財ついて館山市内を3エリアに分けて紹介しました。市内湾岸北部エリア・館山平野部エリア・市内南部エリアを合わせてご覧ください。
(1)館山神社(館山)の手水石<拝殿前>
館山新井浦出身の錦岩(にしきいわ)浪五郎(本名:森紋次郎)が、江戸で大相撲力士となり、文政9年(1826)の十両昇進に際して新井浦の諏訪神社に奉納したもの。錦岩浪五郎は文化14年(1817)に霧の海と名乗り江戸大相撲に登場し、文政5年(1821)の三段目の時、錦岩浪五郎と改名した。文政7年(1824)幕下へ昇進、文政9年(1826)に十両へ昇進した。天保5年(1835)の引退後には新井浦の廻船問屋として海運業で活躍している。慶応3年(1867)に没し、墓は長福寺新井霊園にある。
(2)館山神社(館山)の手水石<末社稲荷社>
館山各町内の石宮がならぶ一角の手水石は、文政3年(1820)に地元の庄司仁兵衛・中山勇助らによって奉納されたもの。裏には江戸領国の石工滝口某が作ったという銘文が見られる。
(3)館山神社(館山)の槙の植樹記念碑
元は江戸深川の鈴木某が願主として寄進した鳥居だったもので、貫(鳥居の横の柱のこと)を差し込んでいた穴が見られる。関東大震災後の館山神社合祀創建にあたって、昭和2年(1927)に楠見(くすみ)区の厳島神社から3本の槙を植樹し、震災で破損していた鳥居を記念碑として使用した。2基で一対であり、社殿に向かって右側の「奉」とある碑は平成18年(2006)の祭礼で破損し再建されたもの。左側の池際の碑は移植当時のままで正面に「献」と刻まれ、裏には植樹にかかわった楠見区の人々の名が刻まれている。「奉献」は鳥居の痕跡である。
(4)北下台(館山)の関沢明清碑
明治期の水産官僚で、近代水産業の先駆者として捕鯨や遠洋漁業などに功績を遺した関沢明清(あけきよ)の記念碑。大日本水産会の会頭・彰仁親王の篆額(てんがく)、同会長(初代幹事長)品川弥二郎の撰文(せんぶん)、日下部東作の書で、東京駒込の石工・井亀泉(せいきせん)が製作した。日本水産会の重鎮や地元有志21名が発起人となり、明治33年(1890)に建てられた。
関沢明清〔天保14年(1843)~明治30年(1897)〕は加賀藩士で、幕末の江戸で大村益次郎らに蘭学・航海術を学んで渡英している。その後も政府官僚としてウィーン万国博覧会等を視察して、日本の水産業振興策の重要性を痛感し、アメリカ式近代捕鯨やサケ・マスの人口ふ化、缶詰製造法を日本へ導入した。また、明治22年(1889)に水産伝習所(現東京海洋大学)を開き、水産教育を実践している。以来現在に至るまで館山が実習所である。その後、自ら館山に居住し関沢水産製造所を設立、勝山の捕鯨船団・醍醐新兵衛と組んで捕鯨や遠洋漁業の事業を興した。伝習所裏山の北下台(ぼっけだい)に建碑されている。
(5)三福寺(館山)の新井文山の墓碑
新井文山は江戸林家塾で学んだ幕末の儒学者。館山新井浦に生まれ、幼少の時より三福寺住職や地元柏崎の素封家鈴木直卿に学問の指導を受け、14歳の時住職の援助で江戸へ出て儒学を学んだ。28歳で帰郷して私塾を開き、地域の教育に力を注いでいる。天保7年(1836)、館山藩主稲葉公に仕えて、天保13年(1842)には目付兼郡(こおり)奉行となった。嘉永4年(1851)に73歳で没した。碑は嘉永6年(1853)、昌平黌(しょうへいこう)教官佐藤担(たいら)の撰文で、房州保田の石工武田石翁(せきおう)の製作である。裏参道に文山夫妻の墓がある。
(6)三福寺(館山)の俵三石作釈迦三尊像
俵三石は東京美術学校彫刻科の高村光雲のもとで学んだ石彫家。慶応4年(1688)、館山楠見浦の石屋に生まれ、明治24年(1891)頃上京。明治27年(1894)に同校の石彫教場助手に任命されて教官となったが、明治30年(1897)頃には館山へ戻り家業の石屋を継いだ。寺社に狛犬、不動明王、地蔵半跏像(はんかぞう)など優れた作品を残しているが、三福寺境内の釈迦三尊像や酒樽型の墓は有名である。
(7)慈恩院(上真倉)の関西商人座古屋墓地改修之碑
江戸中期に新井浦で、押送船(おしょくりぶね)7艘で鮮魚輸送を請け負った館山の代表的な魚商人である。当時の魚商人は干鰯(ほしか)や鮮魚の仲買を営み、江戸に魚問屋を起業するなどして、江戸100万人の消費を支えていた。当家の座古屋(ざこや)清五郎は江戸開府に当たり、摂州座古多村(大阪市西区カ)から房総へ進出した関西商人の一人とされている。
(8)海南刀切(なたぎり)神社(見物)の狛犬
見物村の若者中で天保10年(1839)に奉納したもの。楠見浦の石工田原長左衛門とともに江戸京橋石川橋の彫工・兼吉が共同製作した。
(9)諏訪神社(波左間)の狛犬
昭和2年(1927)に波左間漁業組合や東京・横浜の商店が奉納したもの。奉納者のひとり「八丁幸商店」は横浜市場の仲買人で、現在の「ヨコレイ(横浜冷凍株式会社)」である。波左間の喜久丸の池田家から婿を迎え、当時製氷業で繁盛した。屋号(?(かさじゅう))は魚のブランドとなり高値で売買されたためニセモノがたくさん出回った。
(10)諏訪神社(波左間)の手水石
江戸日本橋本船町の魚問屋伊豆屋善兵衛が、弘化2年(1846)に奉納した。漁村だった波左間と取引があったのだろう。「灌水」の文字を書いた神通(じんつう)は富山藩士の殿岡北海といい、江戸で国学者清水浜臣に学んだ書家である。慶応元年(1865)の没。
(11)八坂神社(伊戸)の狛犬
伊戸村の網元・吉田角右衛門が元治元年(1864)に奉納したもの。江戸の石工・七右衛門に注文して造らせた。伊戸村は江戸時代から明治にかけて、漁業で栄えていた。
(12)照浪院(坂足)の手水石
江戸日本橋の魚問屋米屋嘉兵衛が、寛政10年(1798)に奉納したもの。かつての照浪院(しょうろういん)は、波切不動として漁師たちから大漁・海上安全にご利益があるとして信仰を集めていた。
(13)相浜神社(相浜)の石灯籠
江戸芝金杉の魚問屋須原屋喜兵衛・和泉屋三良兵衛、江戸深川の多田屋又兵衛・水戸屋次良右衛門・和田屋七良兵衛が、文政13年(1830)に奉納したもの。純漁村の相浜村と取引があったのだろう。石工は館山楠見浦の田原長左衛門である。
(14)香取(かんどり)神社(相浜)の石垣
石垣寄付記念碑は、東京日本橋の魚河岸米喜・尾佐・米久・角米・伊豆魚等20名の魚商が、明治32年(1899)に石垣を奉納した際のもの。現在も石垣の一部が残されている。
(15)布良崎神社(布良)の石灯籠
江戸日本橋蔵屋敷の米谷久七、地元網元の豊崎藤右衛門・橋本権右衛門、船大工、帆屋などが元治元年(1865)に奉納したもの。日本橋川は水運の要路で、房総・伊豆からの新鮮な魚介類を運んでくる押送船(おしょくりぶね)で賑わい、全国からの廻船も入って幕府や江戸市中に物産が供給される重要な場所だった。房州屈指の漁村である布良村も押送船の基地だった。石工は神余の権四郎と滝口の松五郎・竹二である。
(16)小網寺(出野尾)の銅造地蔵菩薩坐像
観音堂前の銅造地蔵菩薩坐像は、江戸神田の鋳物師(いもじ)多川薩摩の鋳造である。安永2年(1773)の策で、総高270cm、像高188cm。明和9年(1772)に本堂・仁王門等の再建にあわせ、神余村出身の僧宗真が寄進したもの。台座に当寺住職26世の隆澄(りゅうちょう)が、発起人宗真の尽力を讃えるとともに小網寺再建の経緯を記している。
(17)大円寺(大戸)の山下楽山の碑
江戸で開業した医師。江戸で中川法印に内科を、渡部吉郎に外科を学び、その後京都へ行き賀川光崇に産科を学んだ。父は館山藩侍医(じい)で山下村の山下玄門。碑は楽山の23回忌に子供の安民(やすたみ)が母の地元に建立した。安民は千葉師範学校の教授だった。題額は勝海舟。書は下総の村岡良弼(りょうすけ)、石工は東京駒込の井亀泉(せいきせん)(酒井八右衛門)。
作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木以久枝 2019.2.2作
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