神余・日吉神社と安楽院跡

日吉(ひよし)神社の概要

旧豊房村の村社。延暦23年(804)、神余(かなまり)に居城を構えていた金丸(かなまる)氏により創建されたという。祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)で、国土建設・酒造・五穀豊穣などの神様として知られる。2月8日が勧請(かんじょう)の日とされ、毎年安房神社から社人が来て神楽を奏し、平郡亀ヶ原村(館山市亀ヶ原)の神余田(かなまりだ)から供米が献じられていたという。明治41年(1908)頃に村内にあった8社が合祀された。境内は広く、石灯篭・手水石・力石などがある。例祭は7月19日・20日で、初日に繰り出す神輿の屋根には三つの「二葉葵」の神紋がつけられ、黒の漆と金箔の飾り物の中から、美しく彩色された彫刻が映える。例祭日に奉納される「かっこ舞」は雨乞を目的としている。笛のお囃子に合わせて親獅子・雌(め)獅子・中獅子のカッコ3人とササラ4人が踊る。平成8年(1996)6月26日に館山市無形民俗文化財に指定された。神余の「かっこ舞」の歴史は古く約200年前からと伝えられている。

(1)社号碑

安山岩の基壇に「表徳」、その上の花崗岩(幅39cm・高さ204.5cm)に「日吉神社鎮座」と表した社号碑は、地元の青木禎二郎と東京本所の根来松治が明治31年(1898)に奉納した。尚、昭和50年(1975)頃にダンプカーが衝突し折損。その後、内容をそのままに今の石柱に取替えた。

(2)石灯篭

安山岩と思われる高さ約196cmの石灯篭は、左右の上部基壇に「奉」と「納」。右側歌舞伎壇の正面に「明治二十五年(1892) 旧辰二月 建立」「願主氏子中」と刻まれ、左側下部基壇の右側面には「石工 加藤松治」の銘が刻まれている。

(3)手水石

正面に「奉納」と大きく表し、左隅に当時の神余村名主である金丸家第41代「茂臼」の落款が刻まれている。この手水鉢は村内の加左衛門家の利助と氏子中が大願主で、裏面にある寄進者は金丸・和頴(わがい)はじめ総数54名にのぼる。世話人は若者中。奉納は天保9年(1838)正月。石工は滝口村の吉田亀吉。石は同村横須賀の久太郎の船で運ばれた。

(4)二の鳥居

右柱に「紀元二千五百九十一年」、左柱に「昭和六年(1931)八月建立」「願主 和田 喜左衛門」とあり、神余区加藤組字(あざ)和田の喜左衛門が奉納した。

(5)力石

石段を登り切った左脇に力石が2つある。お祭りの際に力自慢をして楽しんだものだろう。左側の力石には「■十六■」、正面には「奉納 願主 利助 ■兵衛」の文字が刻まれている。右側の力石も正面にも「奉納三百七貫目(約150kg) 願主 利助 久五郎」の文字がある。

(6)石灯篭

江戸中期、寛保2年(1742)3月吉日に若者仲間が奉納したもの。現状の灯篭は火袋が外れ、返花(かえりばな)土台と受花台が二段に積み上げられ竿石に笠石が積まれている。豊作を祈願して奉納されたと思われる。

(7)石灯篭

嘉永7年(1854)に願主として与左衛門と源蔵が奉納したもの。世話人は氏子中。火袋が欠損している。祠(ほこら)の跡地と思われる場所に設置されている。かつて境内には末社八坂神社があったという記録がある。

(8)地蔵菩薩坐像

六地蔵の左側に竿の上に座ったお地蔵様がいる。竿の右側面には「文化十一(1814)戌」とあり、日付は欠損している。正面には右から9人の戒名が刻まれており、玉雪童子・秋露童女・妙玉童女・智浄童女・明音童女などと子供の戒名が多く刻まれている。左側面には、「聖霊菩薩 一切聖霊」の文字がみえる。下部に続くが切断されている可能性がある。

安楽院跡(自称院 恵眠坊墓地)の概要

安楽院は嘉吉2年(1442)に金丸茂詮により創建されたとされる新義真言宗の寺だった。開山は文安5年(1448)、頼智法印(金丸景貞の第2実弟で茂詮の叔父)。本尊は薬師如来だった。創建の後は明治の神仏分離令が発布されるまで、日吉神社の別当寺であった。大正12年(1923)の関東大震災で潰れ、昭和3年(1928)に同区の自称院(じしょういん)に合併された。応永24年(1417)、金丸26代景貞が家臣の謀反により切腹滅亡した後、27代茂詮が金丸家を復興し、金丸家一族及び忠臣戦死者のたtめに菩提寺を村内平田(旧居城・神余城の一角)に建て、医王山安楽院と号したのが始まり。墓地には、江戸時代に神余村の名主を勤めた金丸氏子孫の伊佐(いすけ)(金丸)家、医師や学者を出した和頴(わがい)家など旧家累代の墓がある。

(9)聖観音菩薩立像

墓地の入口右手の六地蔵の裏側に、高さ140cm程の聖観音像の供養塔がある。念仏講仲間の造立で、安山岩の石材に肉厚な立像が彫られている。年号が欠損しているが、像の姿から寛文(1660年代)以前の建立と考えられている。銘文中には茶女・熊女・鶴女・猿女等17人の女性の名ばかりが刻まれている。

(10)戦没者碑

墓地の入口左脇に4基の戦没者の碑が建っている。

田中松之助

神余出身の陸軍歩兵一等兵。明治34年(1901)に歩兵第二連隊に入隊。日露戦争で台湾・樺太(からふと)を転戦して凱旋し、明治39年(1906)1月に除隊した。4月に勲章を賜るが、明治45年(1912)に26歳で病没した。鈴木周太郎の撰文を弟・浅次郎が刻んでいる。

田中幸治

神余出身の陸軍歩兵上等兵で田中三良の弟。明治35年(1902)に入隊。明治37年(1904)に日露戦争で遼東(りょうとう)へ出征し、5月清国南山で伝令の任務中に弾丸が胸部を貫き23歳で戦死した。豊房村長の鈴木周太郎が撰文。

田中茂

陸軍伍長。昭和13年(1938)に陸軍に入隊。昭和16年(1941)に日中戦争に参戦した。昭和19年(1944)3月に硫黄島に転戦したが、昭和20年(1945)3月に30歳で戦死。碑は父・田中三良が建立した。

伊介(いかい)政治

陸軍兵長。重要任務を行う赤羽工兵隊に入隊した。満洲へ出兵し、黒河(こくが)所属部隊で敵中に入り本体を有利に導く挻進隊に所属した。昭和20年(1945)3月20日に44歳で戦病死した。

(11)金丸茂堯(神余村最後の名主)の墓

墓地の中程に最後の神余村名主金丸六右衛門茂堯(しげたか)の墓がある。母子には金丸(江戸時代は伊佐と称した)家の歴史が次のように刻まれている。

「我家の祖先は、藤原鎌足のひ孫魚名(うおな)の第三子巨麻金麿(こまのかなまろ)宗光である。宗光は東夷で功をたて、甲斐よりこの土地に来て、金丸を名乗った。江戸時代になって部門から下り、帰農(きのう)して名主を勤め、代々子孫が受継いだ。宗光から43代目にあたる茂堯は天保13年(1842)2月5日生まれ。幼名は土用太郎。のち六右衛門に改名した。安政6年(1859)に18歳で名主を継ぎ、明治の王政維新で長尾藩本多公の租税局に勤めたが、廃藩置県となり全ての職を辞して隠居。明治26年(1893)7月28日に53歳で病没した。今、わが家のあらましをここに刻み、碑を建てる。神世より連綿と続いて、藤原氏の大臣(おとど)として4世、その後武勇の士を30世代にわたって出し、名主10代を務めて、村に徳をなした。いやしき身ながらも家名を再び興す責が子孫にある」と。

明治32年(1899)11月に子息の金丸家44代金丸雄太郎(茂昌)が建立した。


<作成;ミュージアム・サポーター「絵図士」
刑部昭一・川崎 一・鈴木 正・中屋勝義・山杉博子>
2021.12.15 作

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