智光寺の概要
(南房総市山名1370)
長楽山智光寺(ちょうらくさんちこうじ)は行基(ぎょうき)の作と伝わる不動明王(ふどうみょうおう)を本尊とする真言宗のお寺。安房国札観音二十一番札所になったのは無量寿山光明寺(むりょうじゅざんこうみょうじ)の本尊であった千手観音立像(せんじゅかんのんりゅうぞう)が元禄時代に移ってきてからである。また、阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)も他所の寺から移されてきたものといわれている。観音像を刷るための版木が残されていることや、観音堂や阿弥陀堂などには無数の千社札が張られているなど、かつての繁栄ぶりがうかがえる。江戸時代には住職により寺子屋が開かれ、明治時代になると明治8年(1875)から33年間にわたり、観音堂の西隣に公立の学校が置かれた。山門の金剛力士像、本堂の不動明王立像、阿弥陀堂の阿弥陀如来坐像は南房総市の指定文化財となっている。観音堂の裏手に加茂坂での虚無僧(こむそう)殺害犯の一人 門学(もんがく)を葬った板碑(いたび)状の墓があったが今は見当たらない。
(1)仁王門と仁王像
参道の入口に建つ仁王門は、承応年間(1600年代)の火災によって寺や周辺の民家と共に全焼した。再建は江戸時代中期頃とされる。平成11年(1999)3月の改修工事によって藁葺きだった屋根に金属板瓦をかぶせている。地元の方によると戦時中は旧陸軍駐屯地の炊事場として使用され、屋根裏は炊事の煤(すす)で真っ黒になっているという。門の両側に立つ仁王像は、寄木造り・彫眼・彩色が施され、作者は不明だが制作年代は江戸初期とされる。承応の火災時には仁王像は付近の女性たちによって持ち出され、災禍を免れたとの言い伝えがある。現在の彩色は昭和20年代になされたが本体は修理された記録がない。
(2)旧石段親柱
石段を登りきった左右に石段の親柱がある。左側の柱に「長楽山智光寺」、「兼務住安西亮識」とあり、右側の柱には「昭和五年(1930)三月竣工」とあるが、現在の石段は昭和61年(1986)に改修したもの。工事の碑は親柱の後ろにある。
(3)出羽三山碑
本堂に向かう階段の左右に三山碑が残る。本堂向って右側の石碑は慶応4年(1868)の三山碑である。湯殿山を中心に三山(月山・湯殿山・羽黒山)と梵字(アーンク:大日如来)や19人の地元の講中の名が刻まれている。
(4)出羽三山碑
本堂向かって左側の石碑は明治21年(1888)の三山碑である。月山を中心にして三山(月山・湯殿山・羽黒山)の名が並ぶ。下部に10名の地元の講中の名が刻まれている。裏面には「金花山神社・立山神社」と明治21年3月に石工の田中才治によって刻まれたことが記されている。明治以前は湯殿山を中心とした碑であったが、明治4年(1871)の社格制度(神仏分離令)によって月山が最高位の官幣大社、他が国幣小社に定められ、三山碑には「月山」を中央に刻むようになった。
(5)本堂の手水石(ちょうずいし)
本堂前の旧参道脇に置かれた本堂参詣(さんけい)用の手水石は、上面の水を溜める所を瓢箪(ひょうたん)型に彫り込み、側面に「奉献(ほうけん) 明治十八年(1885)正月二十八日」と刻まれている。お不動様の縁日である28日に奉納したものと思われる。大きさはおおよそ縦88cm、横75cm、高さ38cm。
(6)阿弥陀堂前の手水鉢
阿弥陀堂前の手水舎にある手水鉢の鉢には「嗽水(うすい)」とある。右側面に「明治三十四年(1901)八月吉日」とあり、このときに奉納されたことがわかる。嗽水とは水で口を漱ぐという意味である。水は山手の水を引いているそうだ。
(7)阿弥陀堂
安永4年(1775)年に住職の鑁教(ばんきょう)によって再建されたものという。天井には龍の絵が描かれている。本尊の阿弥陀如来坐像は105cmで、市の文化財に指定されている。胎内と底部に墨書があり、元和2年(1616)に奈良の仏師井上助一良の制作、再興の願主は安房国の幕府代官中村弥右衛門尉吉繁とある。
(8)観音堂
安房国札観音21番の札所。元は安房郡・平郡・朝夷郡の境にある三郡山(みこおりやま)(金比羅山)山中にあって無量寿山光明寺といった。元和年間(1615~1624)に堀之内の観音山に再興され、元禄7年(1694)に現地へ移された。本尊の「千手観音立像」は像高100cmで江戸中期の元文2年(1737)3月に再興された。天井には龍の絵が描かれており、内陣には大きな提灯とわらじが掛けられている。お寺の向かいの旧君塚商店のご主人が寄付したものである。 ご詠歌は「光明寺のぼりのどけきはるの日に山名のはなのちるぞおしさよ」とある。
(9)観音堂の額
観音堂外陣には6枚の大絵馬がある。1枚は縦115cm、横136cmであり、「江州石山寺琵琶湖八景眺望」を描いたものである。絵馬は明治16年(1883)1月に旧館山藩士橘敬信が描いた。橘敬信は19世紀の狩野派画家として知られる川名楽山である。他の絵馬は歴史画や中国故事が描かれているが、劣化のため詳細はよくわからない。その他に国札ご詠歌の額が3枚ある。1枚は享保15年(1730)に長狭郡北小町村(鴨川市)の佐生勘兵衞が奉納したものである。西国、秩父坂東百観音の巡礼額も2枚ある。
(10)本堂
南北朝時代の作といわれる本尊の不動明王立像を祀る瓦葺(かわらぶき)の本堂は、天保10年(1839)に再興し、弘化4年(1847)に再建されたと棟札に記されているが、現在の本堂は昭和の初期頃に建てられたのではないかと考えられる。また、棟札によれば、不動明王立像と内陣は昭和59年(1978)に修復と修理が行われている。外陣の欄間に天女を描いた2枚の絵と「不動明王」と表した扁額(へんがく)がある。棟札や国札観音の刷り物の版木は内陣に保管されている。
(11)法印宥界(ほういんゆうかい)の筆子塚(ふでこづか)
観音堂の裏手に「大法印宥界不生位」「筆子中」と記した寺子屋の師匠を務めた当時の住職である法印宥界(ほういんゆうかい)の供養塔がある。地元の山名村や御庄(みしょう)村、谷向(やむかい)村、江田(えだ)村、竹原(たけわら)村と言った近くの村々と館山の弟子達が安政5年(1859)に建てた。大きさは縦56cm、幅24cm、奥行17cm。
(12)法印秀栄(しゅうえい)と法印鑁教(ばんきょう)の筆子塚
いずれも元住職で寺子屋の師匠をした秀栄と鑁教の筆子塚である。寛政元年(1789)に俗弟子たちが建立した。「権大僧都(ごんのだいそうず)法印秀栄(しゅうえい)」(天明8年(1788)没)と長勝寺(ちょうしょうじ)の住職となっていた「権大僧都法印鑁教(ばんきょう)」(天明3年(1783)没)の名がある。 大きさは縦約56cm、幅約25cm、奥行16cmで、上下二つに割れている。法印秀栄は宝暦13年(1763)に観音堂を再建し、法印鑁教は安永4年(1775)に阿弥陀堂を改築している。
(13)観音講塔
観音堂の裏手に「観音講中」「寛政五年七月」と記した四角形の石塔がある。檀家の人たちなどが決まった日に集まり、千手観音を拝み観音経を唱える講があったものと思われる。寛政5年(1793)は丑年で安房国札観音巡礼の年に当たるので、それに合わせて講の人たちが建てたものと思われる。
(14)山名学校跡
明治6年(1873)、山名(やまな)学校は山名村嵯峨志(さがし)の智蔵寺(ちぞうじ)の境内に創設されたが、明治8年(1875)に智光寺境内の観音堂西に移転した。その後、高等小学校、尋常高等小学校と改まるが、明治42年(1909)に御庄に新校舎が建設され、稲都(いなみや)村(山名・御庄・中(なか)・池ノ内)の全生徒が収容されることになり、智光寺にあった学校は役目を終えて閉校となった。観音堂西の平坦地はその名残である。
(15)陣屋跡と御陣屋通り
参道の東側の畑は通称「陣屋畑」、中央を横切る農道は「御陣屋通り」と呼ばれている。寛永15年(1638)に三枝守昌が三代将軍家光から山名村をはじめ房州で1万石を与えられ、山名においた陣屋(御蔵(みくら)陣屋)である。翌年からは三枝家の流れをくむ旗本諏訪家が天保13年(1842)まで104年間にわたって山名を知行地とした。御陣屋通りは安房国札観音の巡礼道としても使われていた。
作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
岡田晃司・刑部昭一・鈴木正・山杉博子(2024.12.12 作)
監修 館山市立博物館
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