文化財ガイド 補陀洛山那古寺
養老元年(717)に僧行基が建てたとされる。江戸時代に元禄大地震で倒壊したが安房全域におよぶ万人講勧進によって再建された。坂東三十三番巡礼札所の結願寺として知られ、本尊の千手観音像、阿弥陀如来像、多宝塔など多くの文化財がある。寺の裏山は自然林が保存され、山頂からは市街や対岸がよく見わたせる。
(※補陀洛:観音信仰の中心地で、眺望がよく、海に臨み、花咲き鳥囀る極楽の境地)
本坊エリア
(1)大蘇鉄
嘉永7年(1854)に、茨城出身の江戸の力士、一力長五郎が石垣を奉納している。本坊に向かって左側の方に、長五郎の名前が彫られた石がみえる
(2)日露戦争記念碑 明治39年(1906)
那古から日露戦争に従軍した人の名前を記した碑。表の題字は、陸軍大将の大山巖の書。
(3)三尾重定先生墓 明治43年(1910)
三尾重定は尾張出身の漢学者で、『房陽奇聞』を著した人。その弟子たちによって建てられた墓。晩年は鏡ケ浦の景色を好み、那古山の式部堂によく立ち寄ったという。
多宝塔エリア
(4)巡拝記念碑 昭和46年(1971)
那古寺は、観音札所坂東三十三カ所の結願寺。この碑は、東京や横浜、青森などの人が奉納したもの。
(5)庄司雅二郎君之稗 昭和5年(1930)
豊田村の村長を務めた。安房政友同士会を創設し、明治末から鉄道敷設に力を尽くした。
(6)阿弥陀堂
県指定文化財の木造阿弥陀如来坐像が安置されている。この阿弥陀像は、鎌倉時代の作とされる。
(7)多宝塔
県指定文化財。江戸時代の宝暦11年(1761)に、那古の伊勢屋甚右衛門が願主となり、地元の大工たちが再建した。
(8)力石
昔の人が力比べのために持ち上げた石。一番重いのは、左にある那古の森田治兵衛と江戸湯島の内田金蔵・佐助が奉納した75貫(約281kg)のもの。
(9)石灯籠
元禄7年(1694)に、那古の人が両親の供養のため建てた。
(10)石灯籠
江戸時代の延享2年(1745)に奉納されたもの。
(11)百万遍念仏塔 天保7年(1836)
百万遍とは、大勢で念仏を唱えながら大きな数珠を回す風習のこと。この塔は、唱えた念仏の数があわせて百億回に達したという記念に、正木村や那古村の仲間が建てたもの。
観音堂エリア
(12)手洗石 天保15年(1844)
上総国勝浦の人が願主となって奉納したもの。
(13)針塚 昭和41年(1966)
使い古した針を納める針供養のための塚。全和裁団体連合会・安房郡市和裁教授会ほか、約百もの団体や個人によって奉納されている。
(14)納札塚 大正4年(1915)
観音霊場を巡礼する東京納札会によって奉納されたもの。
(15)観音堂 宝暦8年(1758)再建
那古寺の本堂にあたる県指定文化財の建物で、銅造千手観音立像(重要文化財)がある。入口に掲げられた「円通閣」の額は、江戸時代末の幕府老中松平定信の書によるものである。
(16)白衣観音 寛政6年(1794)
本堂の修理が終わったことを記念して建てられた。修理に関わった地元の世話人や大工の名前が記されている。
(17)地蔵菩薩 宝暦4年(1754)
地元の念仏講中が奉納したもの。像のみが宝暦の作で、その他は寛政3年(1791)に再建された。
(18)芭蕉の句碑 文政6年(1823)
「このあたり 目に見ゆるもの みなすずし」という松尾芭蕉の句が記されている。
(19)岡本純考墓
明治8年(1875)に17歳で病死した元多田良村名主家の人の墓。
(20)岩船地蔵
漁業の安全祈願のために、那古の人たちが奉納したもの。約50個の岩船がある。
(21)八大龍王碑 安政3年(1856)
仙台石の碑で、石巻の高橋屋作右衛門らが那古の船仲間とともに廻船の海上安全を願って奉納したもの。
(22)日枝神社
安永4年(1775)奉納の石燈籠などがある。
(23)手洗石
寛政5年(1793)に奉納されたもの。
(24)石段袖石
石段の右側は明治22年(1889)に作られ、左は大正6年(1917)に改築されたときのもの。神社をとり囲んでいる玉垣は大正11年に作られた。
(25)廻国巡礼塔
全国を廻る修行者六十六部が建てた供養等。
(26)芭蕉の句碑 明治22年(1889)
松尾芭蕉の二百回忌を追悼して、館山周辺の俳句仲間が建てた。記されているのは「春もやや 気色ととのふ 月と梅」という芭蕉の句。
(27)和田翁記念碑 明治25年(1892)
農業の振興につくした地元の和田信造をたたえた碑。
(32)閼伽井(あかい)
仏様へ供える水を汲む井戸のこと。元禄地震で倒壊した那古寺が再建されていた宝暦11年の石組みが使われている。となりは弁天様。
式部エリア
(28)紫式部供養塚
紫式部の墓があるという伝説が残る。ここは古屋敷とよばれるところで、元禄16年(1703)の大地震まで、那古寺の本堂があったところだといわれる。
(29)富士講祠 文化14年(1817)
富士講とは、富士の神様を信仰する仲間のことで、江戸時代の末に江戸を中心に大流行した。これは地元の山三(ヤマサン)講が祀ったもの。
(30)和泉式部供養塚 明治32年(1899)
平安時代の女流歌人、和泉式部の墓といわれる。こうした伝説の地は全国各地にあるが、明治32年頃にここで病気が治ったとのうわさが広まり、大勢の参詣者が来るようになった。塚は、中世の宝篋印塔の基礎を積み上げてつくったもの。
(31)小式部供養塚 明治32年(1899)
和泉式部の娘、小式部の供養塚。(30)の和泉式部供養塚と同時に建てられた。
(33)和泉式部塚道しるべ
潮音台の和泉式部塚への参拝が増えていた明治34年のもの。船形から登る道にも道しるべがあった。
制作:平成9年度博物館実習生
監修 館山市立博物館