洲崎神社・養老寺

洲崎神社(すのさきじんじゃ)と養老寺(ようろうじ)の概要

洲崎神社は館山市洲崎字神官免(じんがんめん)にあります。東京湾の出入口を見下ろす場所であることから、古来、漁師にとっての漁業神、船乗りにとっての航海神でした。祭神は天比理乃咩命(アメノヒリノメノミコト)といい、安房開拓神話に出てくる忌部(いんべ)一族の祖神天太玉命(アメノフトダマノミコト)の后神(きさきがみ)です。平安時代には朝廷から正三位の位を与えられ、源頼朝が伊豆での挙兵に失敗して安房へ逃れたときには当社に参拝して坂東武士の結集を祈願したことは有名な話。中世には品川・神奈川など東京湾内の有力な港町にも祀られました。例祭は8月21日。中世には修験が7か寺あったといい、江戸時代には社務所の県道寄りに別当寺を務めた吉祥院があって、神社の社領5石を管理していました。

 養老寺は神社に隣接する真言宗寺院で、正式には妙法山観音寺といい、江戸時代まで洲崎神社の社僧を勤めていました。養老元年(717)に役行者(えんのぎょうじゃ)を開祖として創建されたと伝えられ、本尊は洲崎神社の本地仏である十一面観世音菩薩です。境内にある石窟と独鈷水(どっこすい)は役行者との関係を伝え、曲亭馬琴の長編伝奇小説『南総里見八犬伝』の舞台としても知られています。また洲崎に多い頼朝伝説は当寺にも伝えられています。

(1)御神石

 浜に祀られている長さ2.5mの丸みを帯びた細長い石は付近の岩石と異なる。竜宮から洲崎大明神に奉納された二つの石のひとつとされ、もうひとつは三浦半島に飛んでいったという。それは浦賀の西にある安房口神社にあり、先端に円い窪みがあることから「阿形(あぎょう)」にたとえられ、洲崎の石が口を閉じたような裂け目があることから「吽形(うんぎょう)」となり、狛犬のように東京湾の入り口を守るように祀られている。

(2)社名碑

 「一宮洲崎大明神」とあるのは、二殿一社とされる式内社の天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)神社が、洲崎神社を拝殿として一宮、洲宮神社を奥殿として二宮とされてきたことにより、別称「安房一宮」として尊崇されてきたことによると考えられている。碑は文政3年(1820)に吉祥院の別当(べっとう)賢秀が設置した。

(3)鳥居の大注連縄(おおしめなわ)

 高さ約15mの神明鳥居に、長さ13mの大注連縄(しめなわ)が掛けられている。当地では毎年1月8日の朝に神社へ集まり、神賀会(じんがかえ)という仲間で大鳥居に掛ける注連縄をつくる。その注連縄の中央につける木札には「久那戸大神(くなどおおかみ)」とある。巷(ちまた)に立って災禍を防ぎ庶民を守る道祖神であると伝えている。

(4)敬神風化の碑

 関東大震災(大正12年=1923)と昭和大津波(昭和11年=1936)の両度の大災害にも屈せず、地区民が一丸となって、洲崎神社と栄ノ浦(えいのうら)・間口(まぐち)2漁港の復旧に尽力したことの顕彰碑である。総高3.5mの粘板岩。題字は玄洋社社主頭山満(とおやまみつる)の筆、撰文と書は明治大学教授で伝説学者の藤沢衛彦(もりひこ)。昭和12年建立で、発起人10人と漁業組合員47人の名が刻まれている。

(5)石灯篭

 随身門(ずいしんもん)前に一対で置かれている。火袋(ひぶくろ)は日月型に開けられている。表面の剥落(はくらく)が著しいが、台座に寛政2年(1790)7月建立を示す文字が見える。

(6)厄祓坂(やくばらいざか)

 148段の急勾配の石段のこと。階段の中段と最上段の両脇にある2対のコンクリート柱は、御浜出する神輿が急勾配の石段を昇降する際に、神輿を支える危険防止の支柱である。坂の名は、急峻な石段を敬虔な気持ちでのぼり参詣することで、厄落としが出来るとして命名されたそうである。

(7)拝殿

 正面の扁額「安房国一宮洲崎大明神」は文化9年(1812)の奉納。房総の海岸警備の任にあった白河藩主松平定信の書である。拝殿内には潮の難所での航海安全を祈願して奉納された「潮のみち」の絵馬がある。

(8)本殿

 神社建築としては唐様三手先(からようみてさき)の組物を用いているのが珍しい。木鼻や欄間の彫刻も見事で、江戸初期の本蟇股(かえるまた)も見られる。延宝年間(1673~1680)の造営とされるが、その後の大規模改修がみられる。市指定文化財。

(9)稲荷神社

 祭神は宇迦之御霊命(うかのみたまのみこと)で、五穀豊穣の神とされている。鳥居の右手に勧請の由来を記した石碑があり、安永元年(1772)に伏見稲荷大社の分社として別当の吉祥院が請来したことがわかる。

(10)洲崎神社の自然林

 本殿裏の御手洗山(みたらしやま)には、スダジイ・ヤブニッケイ・タブノキ・ヒメユズリハなどの常緑樹が自然林を形成している。昭和47年に県の天然記念物に指定されている。

(11)一本すすき

 観音堂前の一群のススキのことである。源頼朝が洲崎神社へ参詣したおり、昼食時に箸(はし)の代用にしたススキを地に挿し、「わが武運が強ければここに根付けよ」というと、のち数茎に根付いたという伝承があり、土地の人は「一本すすき」と呼んでいる。

(12)森田三餘(さんよ)行徳(ゆきのり)の墓

 森田行徳(ゆきのり)は洲崎の人で、三餘(さんよ)はその号である。江戸末期から明治の初めにかけて自宅で寺子屋を開き、地域の子弟の教育に情熱を捧げた人。この墓は師匠の徳を偲んで、教え子たちが昔塾中として、明治28年(1895)に建立した。三餘の法名は楽誉水山仁寿居士。

(13)筆塚句碑

 「菅(すげ)の間の 蝶や二葉を 植し棕櫚(しゅろ)」とある。作者「素水」は洲崎の渡辺家に生まれ、館山の医師鈴木正立家を継いだ人。文政5年(1822)に筆塚として建立した。

(14)独鈷水(どっこすい)

 観音堂の左裏手の山すそに、役行者の霊力で湧いたという独鈷水という湧水があり、旱天(かんてん)にも涸れることがないといわれている。

(15)手水石

 上面がひょうたん型に刳(く)りぬかれている。施主は「吉郎兵衛・清五郎・九蔵・堅秀」とあり、安永7年(1778)4月の奉納。

(16)観音堂

 鬱蒼とした樹林を背に屋根に金色の宝珠が輝き、下見部分が朱塗りの観音堂。本尊の十一面観音は安房国札観音の三十番札所で、ご詠歌は「観音へ のぼって沖をながむれば 上り下りの 船ぞ見えける」。向拝に後藤義光の師後藤三四郎恒俊の彫刻が施されている。

(17)子育て地蔵

 右手に幼い子を抱き、左手に宝珠を捧げ持つ半跏(はんか)地蔵尊。台座に願主・世話人各2人の名があり、寛政9年(1797)の建立とある。この「子育て地蔵」が「子育保育園」の名前の由来である。

(18)光明真言(こうみょうしんごん)百万遍塔

 光明真言は真言密教の呪文で、これを何万回も唱えると一切の罪業(ざいごう)が消滅するという。この塔は文化8年(1811)に近間孝治が百万遍を達成した記念のもので、裏面に「観音の きせい(祈誓)をここに立置て なむ阿弥陀へと 廻るすす玉(じゅずだま)」という歌がある。

(19)役行者(えんのぎょうじゃ)の岩屋

 境内の岩肌に掘られた岩窟に役行者の石像が祀られている。奈良時代の人で修験道の開祖。妖術で人を惑わすとして伊豆大島に流罪になった。社伝では、養老元年(717)に大地変がおき境内の鐘ヶ池が埋まって鐘を守っていた大蛇が災いをおこしたとき、祈祷をして大蛇を退治したのが役行者だとしている。海上歩行や空中歩行の神通力を持つことから足の守護神され、岩屋の前には多くの履物が奉納されている。八犬伝では、役行者の化身が伏姫に仁義礼智忠信孝悌の八字が浮かぶ数珠を授けるという場面に登場する。

洲崎踊り

 8月21・22日の例大祭に奉納される踊りで、弥勒(みろく)踊りと鹿島踊りからなる。前者は左手に榊と幣束をつけたオンベ(御幣)と呼ばれる棒、右手には日の丸の扇をもち、太鼓や唄にあわせて踊るもの。後者は扇だけで踊る伝統芸能で、豊作豊漁・悪霊退散を祈願して行われる。昭和36年(1961)に県の無形民俗文化財に指定され、昭和48年には文化庁の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選定されている。


 <作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
石井道子・井原茂幸・岡田喜代太郎・加藤七午三・中屋勝義>
監修 館山市立博物館