山本・安布里

丘陵部には古代遺跡が広がり、平野部には中世に鎌倉鶴岡八幡宮の荘園があった歴史深い土地。頼朝や里見氏の伝説も残す地域に暮した人々の歴史を歩きながら探訪してみよう。

山本(やまもと)エリア

(1) 小野様

 中央の角柱の墓が小野様と呼ばれ、飢饉(ききん)のときに幕府の米蔵を開放して村人を救ったという領主の善政と遺徳を偲んで建てられた供養塔と伝えられている。文政8年(1825)に村人たちによって建てられたもので、領主は小野日向守一吉(ひゅうがのかみくによし)・安芸守近義(あきのかみちかのり)父子である。日向守は御家人から勘定奉行にまで出世した有能な財務官僚で、不正にも厳しく対処した人として知られている。右側の地蔵尊は天保7年(1836)に名主小原善兵衛をはじめ村中で建てた念仏供養塔で、長須賀の石工(いしく)鈴木伊三郎の作品。この前で8月17日に小野様の念仏供養が行われる。

(2) 堂の下の出羽三山碑と廻国塔

 ここは堂の下と呼ばれ、出羽三山碑や廻国供養塔が建ち並ぶ。廻国塔は日本全国の有名寺社に法華経を納めて回った記念碑で、享保14年(1729)に地元山本の山岸八左衛門が建てたものと谷貝久右衛門が建てたもの、翌年鈴木茂右衛門が建てたものがある。出羽三山碑は安永2年(1773)・同8年、寛政2年(1790)、文化13年(1816)に建立されたものがあるが、台石には別の年号を刻んだものがある。

(3) 御嶽(みたけ)神社

 日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀る。中段の社名碑は地元の山岸某が山岡鉄舟に書いてもらった文字を大正元年(1912)に建立したもの。手水石は文化9年(1812)のもの、階段横の土留めは昭和50年(1975)の伊勢参拝記念になっている。社殿前の手水石は汽船事業をおこした地元の小原謹一郎が明治18年(1885)に奉納したもので、四隅に亀の彫刻がある。狛犬は寛政12年(1800)に小原善兵衛・井上五兵衛ほか22名が奉納したもので、石工は元名(鋸南町)の大野常五郎。本殿に施された彫刻は木目を活かした作で、千倉の彫刻師後藤義光の師匠で江戸後藤派の三次郎恒俊の作品。

(4) 山本堰と弁才天

 山本堰は明治初年頃に築かれ、山本の42ヘクタールの水田を潤している。平成14年(2002)から改修工事が行われ、平成17年に親水施設として整備された。御嶽神社の崖下には水の神である弁才天が祀られ、昭和3年(1928)の社殿再建記の碑がある。

(5) 折目台(おりめだい)のいぼ地蔵

 文政10年(1827)や天保6年(1835)の馬頭観音が並び、かつて古茂口へ山越えした道に沿って、享保14年(1729)に村の念仏講中が建立した地蔵尊が祀られている。いぼ地蔵と呼ばれ、線香の灰をぬるといぼが取れるという信仰がある。地蔵尊の右隣の如意輪観音像は享保17年(1732)の十九夜念仏塔で、女性が集まって念仏を唱える十九夜講で建立した。開眼導師はともに金乗院の證恵(しょうえ)とある。

(6) 瀧音院(りゅうおんいん)

 真言宗のお寺で、本尊は不動明王。龍音院とも書く。館野・九重地区の六地蔵めぐりの第6番。本堂の左手に江戸小泉町の多田某という六十六部の墓がある。六十六部は日本中を廻国しながら寺社に納経巡礼する人のことで、巡礼していた途中だったのだろう、元文3年(1738)の暮れ12月26日に亡くなっている。また防空訓練指導をした館山監視哨(かんししょう)長で、昭和18年(1943)に殉職した井上秀雄(36歳)の墓がある。

(7) 鞍懸様(くらかけさま)

 山本の登鎧(とがい)台という集落にある。伊豆から安房へ逃れた源頼朝が鎧(よろい)姿のままここの丘に登ったという伝説を伝える地である。このとき馬の鞍を松に懸けて休んだことから、ここに頼朝が「鞍懸大神(おおかみ)」として祀られた。古い碑は明治29年(1896)に地元の山口治助が建立、新しい碑は平成14年(2002)のもので、鞍懸様を祀る8軒の講中(こうちゅう)で建立した。この8軒によって毎年2月7日に「鞍懸様」という祭りが行われる。

(10) 金乗院(こんじょういん)

 真言宗のお寺で御嵩山(みたけさん)金乗院といい、本尊は不動明王。明応4年(1495)の創建で、里見氏から寺領4石を与えられていた。境内には「高木氏族譜碑之銘」と題された記念碑がある。地元の旧家高木一族の系譜を刻んだもので、安政3年(1856)建立。書家として知られる元勘定奉行の戸川安清(やすすみ)の書である。向拝の龍の彫刻は後藤義光の師後藤三次郎恒俊の作で、嘉永4年(1851)の作。墓地の入口にある六地蔵は享保3年(1718)の建立で、念仏講による。

(11) 山本城跡

 戦国時代の城跡で、山頂に土塁をともなう郭(くるわ)があり、館野小学校裏あたりの尾根には幅広の空堀(からぼり)がみられる。山頂には八幡神が祀られている。南側の山すそには「堀の内」という呼び名がある。龍淵寺の開基里見中務大輔や慶長期の山本村領主だった里見家家老の山本清七などと関係する城かもしれない。

(12) 龍淵寺(りゅうえんじ)

 曹洞宗で霊嶺(れいれい)山龍淵寺といい、本尊は釈迦如来。霊巌山(れいがん)ともいう。大永1年(1521)に里見中務大輔(なかつかさのたいふ)氏家が創建したとされ、江戸時代には徳川家から寺領3石を与えられた。墓地に享保18年(1733)の十九夜念仏塔があるほか、幕末から明治期の安房を代表する文化人森岡半圭(はんけい)の墓がある。門前の地蔵尊は延享元年(1744)に鎌田六郎右衛門が寄進、六地蔵は寛延4年(1751)のもの。

(13) 秋葉神社

 火伏(ひぶ)せの神として知られる遠州気田(けた)(静岡県浜松市)の秋葉神をお祀りしたもので、大きな石宮がある。天保年間に火災が多発したことから秋葉様へお参りして分けてもらってきたのだと伝えられている。2月11日に祭りが行われる。

(14) 要害(ようがい)

 峯台と呼ばれる新しい住宅がある高台は、要害とも呼ばれており、かつて狼煙(のろし)をあげた場所であったという。険しい場所をさす要害という呼び名は、戦国時代の城跡によく残されている。

安布里(あぶり)エリア

(8) 八坂山神社

 大網の山神社が火災にあったことから、明治44年(1911)に安布里の八坂神社と合祀されて、名前も合成された。八坂神社は江戸時代までは修験僧の三上氏が管理しており、その墓地が参道途中に残されている。社殿への石段は安政5年(1858)に半右衛門が願主として整備したもので、手水石は文久元年(1861)に若者中によって奉納された。拝殿の礎石に獅子の彫刻があり、明治41年(1908)に二代目石直と呼ばれた村の石工秋山千太(24歳)が彫刻寄進したとある。社殿左手にある石宮は火伏(ひぶ)せの古峯(こみね)神社で、明治15年(1882)に渡辺半右衛門が願主となって建立した。

(9) 源慶院(げんけいいん)

 曹洞宗のお寺で、安布里山(もとは安龍山)源慶院といい、本尊は延命地蔵菩薩。安房国108地蔵尊参りのうち104番札所である。山門に「南総里見家姫ゆかりの寺」とあるのは、天正元年(1573)に里見義弘(よしひろ)の娘佐与姫(さよひめ)によって創建されたことをいう。里見氏からは25石余りの寺領が与えられていた。佐与姫は天正7年(1579)に没し、その墓が住職の墓地にある。また団扇(うちわ)作りを房州に伝えたという元美濃国(みののくに)(岐阜県)岩村藩士林栄之助の墓や、幕末に海岸警備に来た武州忍(おし)藩士(埼玉県行田市)の家族の墓や旧長尾藩士小池氏先祖の供養塔もある。


監修 館山市立博物館