圓蔵院<千倉>

圓藏院(えんぞういん)の概要

南房総市千倉町北朝夷の谷(やつ)台にある真言宗智山派の古刹。創建年代は不詳。古くは寺庭にあり荒神山特恩寺圓藏院(えんぞういん)と号じ、現在地に移って新福山園藏院に改称したといいます。本尊は地蔵菩薩ですが観世音菩薩遊化(ゆうげ)の霊場として知られています。南房総市府中にある安房国触頭(ふれがしら)宝珠院の配下にあり、那古寺・清澄寺(現在日蓮宗)とともに房州真言宗の三古刹のひとつで、53か寺(現48か寺)の末寺を持つ本寺です。文安元年(1444)に源秀が中興開山第一世となってから隆盛を極め、その後哀徴しましたが天正年間に里見氏の帰依(きえ)を受けて、天正18年(1590)里見義康より寺領として石高50石及び境内地を安堵され、里見義康夫人の病気平癒祈願も行っています。徳川歴代将軍より寺領50石の朱印を賜り、現在も里見氏と徳川幕府の御朱印状納筥(おさめばこ)が伝わっています。現在まで62世の住職が継承しています。

(1)地蔵菩薩立像(2)地蔵菩薩坐像

右側のお地蔵様は高さ1m程の立像。安永7年(1778)に延命地蔵として地元の北朝夷村谷(やつ)台の人達によって建てられた。左側の30cm程の小さい坐像のお地蔵さまも延命地蔵で、文政元年(1818)に地元の女性たち(老母中)によって建てられた。

(3)地蔵尊

寛政9年(1797)に32世日雅が建立し、明治28年(1895)に43世道隆が地域の老母たちの助成を得て再興した。石工は地元の真田初次郎と遠藤徳治である。地元では「北向き地蔵」と呼ぶ人もいる。

(4)出羽三山碑

風化が激しいため、大日如来を意味する梵字(ぼんじ)(アーンク)と月山・湯殿山・羽黒山と読み取れるのみで、他の銘文は確認できない。湯殿山が中央にあるので、江戸時代の建立と思われる。

(5)庚申塔(こうしんとう)

頭巾(とぎん)型で正面に「庚申青面金剛(しょうめんこんごう)」と刻まれた文字塔は、文政元年(1818)に地域の庚申講の老母たちにより建てられた。庚申の日の夜には当番の家に集まり懇ろに念仏を唱える風習があった。

(6)六地蔵

この石塔には六道の担当地蔵の分担や形態と24文字の光明真言が梵字で刻まれている。享保12年(1727)に23世日盛が長谷川氏・遠藤氏・石井氏の3人の肝煎で「十五日念仏講中」の人達と共にこの塔を建てた。寺で毎月15日に念仏講が行われた。

(7)歴代住職霊廟(れいびょう)

ここには約60基の墓があり、左の列に寛永11年(1634)没、里見時代の9世祐辨上人の墓。同じ列に正保4年(1647)没の14世祐圓の墓がある。延命地蔵菩薩立像は、光明真言百万遍・陀羅尼経(だらにきょう)3万6千遍唱えたのを記念し、天和4年(1684)に衆生(じゅじょう)の平和、寺の安泰を願い20世日慧が造立した。正面奥の列左には享保7年(1722)に法印宥壽により寄贈された弘法大師坐像がある。正面奥左の40世智導の墓は後藤義光の彫刻で、球形の塔身で竿の部分に密教法具が刻まれている。右列中央に寺小屋を開いた41世盛惠(館山市沼出身)の供養塔がある。造立施主は寺小屋の筆子(ふでこ)中である。

(8)弘法大師一千百年遠忌塔

門柱手前左側に高さ約3mの弘法大師供養塔がある。昭和9年(1934)の49世太範のときに弘法大師を偲んで建立された。

(9)門柱

明治31年(1898)に43世道隆のときに建てられるも、大正12年の大地震で倒壊し、翌年12月に46世快性により再建された。

(10)弘法大師一千五十年遠忌塔

明治17年(1884)の42世明道のとき、法華経を数億万遍唱えた記念塔である。石工は平館村加藤卯之助。彫刻は当村後藤義光72歳の時の作である。多数の寄付者の氏名・金額が刻まれている。大正12年の大地震で崩れ、昭和3年(1928)、47世啓道の時代に再興した。

(11)宝篋印塔(ほうきょういんとう)

元禄地震後に永く寺の再建に取り組んだ32世日盛が、先人の供養と民衆の安寧を願って陀羅尼経(だらにきょう)を納めたもので、元文4年(1739)に建立した。

(12)観音堂

本尊は十一面観世音。このお堂は安政4年(1857)の39世成道のとき地元大工らによって建築された。それ以前の寛政4年(1792)に32世日雅が本尊と中の宮殿(くうでん)を再興したという棟札も残されている。

(13)鎮守本社

弘化2年(1845)、39世成道により北朝夷村名主佐次右衛門、南朝夷村名主太郎兵衛を中心に建築された。棟梁は作右衛門、両村の太子講中が大工として働いた。4基のお宮の内の1基には御正体(みしょうたい)があり、元禄5年(1692)に20世日恵が稲荷大明神を祀ったことがわかる。本地(ほんじ)仏は如意輪観音と記されている。

(14)本堂・庫裏・客殿・玄関(南房総市指定文化財)

古文書によると、本堂は享和3年(1803)から文化2年(1805)にかけての再建。修業道場の造りで江戸後期のものと思われる。庫裏・玄関は天保14年(1843)から安政4年(1857)に建築され、客殿は震災後の大正14年(1925)に建築された。本堂には千倉町の彫刻師後藤義光の作品の欄間(らんま)・御詠歌額・経蔵篋(きょうぞうきょう)(市指定)などがある。

(15)四国八十八箇所巡礼道場

安房第三教区檀信徒連絡協議会で、平成15年から一年一国(阿波・土佐・伊予・讃岐(さぬき))の巡礼を行い、平成18年に巡礼満願したのを記念して、四国八十八か寺巡りの写しを建立した。願主は61世星正芳、助願は圓藏院門葉(もんよう)総代の金剛院根本乾一(圓藏院62世)。

(16)正栄丸遭難者慰霊碑

千倉漁港所属正栄丸(しょうえいまる)の遭難一周忌にあたり、海軍航空隊や漁業調査船などを動員して検索した様子や、義捐金(ぎえんきん)を拠出した団体や個人名、義捐金を遺族や船主に配分した様子を刻み、昭和10年(1935)に建立した。発起人は安房郡内の町村会長や近隣の漁業組合長など。

(17)梵鐘と鐘楼堂(南房総市指定文化財)

享保8年(1723)に23世日盛が本願となり、南北両朝夷村名主や近隣の村々の女性を含む有力者等の浄財を集めて、かつてあった梵鐘(ぼんしょう)を再興した。鋳物師(いもじ)は江戸の西宮大和守藤原常重と同長五郎。鐘楼(しょうろう)には江戸中期の古材が使われている。四方には鐘を守るためか十二支の動物や鳳凰の彫物がある。鐘は戦争中の金属回収令で供出したが、昭和50年(1975)に使用していた他の寺から返還された。

瑠璃光山東福寺圓乗院(るりこうさんとうふくじえんじょういん)

本尊は薬師如来坐像で平安時代の様式がうかがわれ、市の指定文化財である。現在地より西方の峰に、大同元年(806)、土地の豪族梶原将監(しょうげん)成高が薬師如来坐像を安置して草堂を造営したのに始まるという。文安3年(1446)、新福山徳恩寺圓藏院の住職源秀が海上安全祈願と万民の帰依(きえ)などのため、領主の許しを得て草堂を境内に移し、瑠璃光山東福寺圓乗院(えんじょういん)と号し現在に至る。

(18)薬師堂

お堂は明治期の造営で、前立ち本尊の薬師如来坐像と脇侍(わきじ)として日光菩薩、月光菩薩、十二神将や聖徳太子像も安置されている。

(19)石灯籠

地元の若者達が願主となり、寛政11年(1799)、住職快雅の代に石灯籠を1対奉納した。石工は地元北朝夷の伊八とある。

<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・鈴木以久枝・鈴木正・吉野貞子>
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