吉保(きっぽ)八幡神社の概要
鴨川市仲253にあり、主祭神の誉田別尊(ほんだわけのみこと)、素戔命鳴尊(すさのおのみこと)、天忍日命(あめのおしひのみこと)が祀られている。天長6年(829)に吉保郷の鎮守として宇佐八幡を勧請し、文安年間(1444~1448)に里見氏の家臣緒形茂次が祈願所として再建したと伝えられる。現在の本殿は、流造(ながれづくり)で天明年間(1781~1789)に造営された。例祭は、毎年9月の最終日曜日に千葉県無形民俗文化財指定の吉保八幡神社の流鏑馬(やぶさめ)神事が行われる。また、周辺には明治天皇の大嘗祭(おおにえのまつり)の際の斎田跡や、中世から権力者の庇護を受け軍馬が育成されたという峯岡があり、中央と深いつながりを持つ土地柄でもある。明治6年(1873)に郷社に列せられた。
(1)社号碑
白御影石で作られた縦2m6cm、基壇から4mの四角柱。表面の「吉保八幡神社」は、元陸軍大将で明治神宮宮司の一戸(いちのへ)兵衛の書。昭和6年(1931)建立。基壇裏は伊勢神宮参拝記念碑になっている。
(2)鳥居
平成14年(2002)9月16日に再建された高さ約5m、幅4mの朱塗りの両部鳥居である。
(3)手洗石
舟形の手洗石は、正面に奉納、裏面に明治12年(1879)12月23日の年号と下段に仲・宮山・大川面三村の世話人の名があり、立会人として四宮浪江の名が刻まれている。
(4)常夜灯
本殿正面の常夜灯は新しく平成20年(2008)12月に奉納された。右に宮司・氏子・総代・四区区長、石工の加藤勇次、左に仲区氏子と記されている。
(5)井戸
流鏑馬神事で騎乗する禰宜(ねぎ)が、7日間のお籠(こも)りの間、身を清める井戸である。神事当日は、諸役、神社総代役員も禊(みそぎ)を行い、仲集落の禰宜精進潔斎所まで禰宜を迎えに行く。
(6)狛犬
昭和15年(1940)に大山・吉尾・主基(すき)村の出征兵士家族・氏子により、兵士の健康と武運長久を祈り寄進された。
(7)本殿・拝殿
神池の中の島中央にある本殿には、三間流造の向拝(ごはい)欄間があり、初代伊八の作とされる龍、麒麟(通常は拝観できない)がある。拝殿には、二代後藤義政の義弟後藤義道作の虹梁の波と龍、木鼻の獅子などがある。虹梁の波と龍は大正元年(1912)に君津郡天神山村鈴木芳兵衛、木鼻の獅子は君津郡湊町の鈴木栄好が寄付した。
(8)神池・水分(みまくり)神
神池は湧水が出ており枯れたことがないと伝えられる。八幡神社になった時代に放生会の神事に使うために作られたと伝わる。神池の石祠は水分神を祀り、今も雨乞神事が行われる。
(9)三峯神社
昭和6年(1931)に4名代参、昭和57年に全講員が三峯神社(埼玉県)に参拝した記念碑と、明治36年(1903)の遷宮記念碑がある。手洗石は宝暦7年(1757)に吉保氏子中が寄進したもの。
(10)庚申塔
青面金剛(しょうめんこんごう)は庚申講の本尊とされる。庚申の夜、体内から三尸(さんし)の虫が上帝に悪行を告げ寿命が縮むと信じられたため、講仲間と眠らずに食事や酒を飲んで夜を明かした。文化8年(1811)のもの。
(11)日清日露戦役記念碑
明治44年(1911)に吉尾村尚兵会が建立した吉保村出身出征者の碑である。明治27・28年(1894・1895)の日清戦争出征者7名と、明治37・38年(1904・1905)の日露戦争出征者40名、戦死者・戦病死者各1名が記されている。
(12)御嶽(おんたけ)神社碑
台座左側面に年号と名前があるが、摩耗している部分があってすべてを読み取ることはできない。石工は坂田小三郎。明治21年(1888)に建立された。
(13)御神木
樹齢100年以上といわれる枝張りのみごとなクスノキである。
(14)蝗(いなご)神
寛延3年(1750)に仲・宮山・大川面村の村人により建てられた。蝗害を防ぎ、その供養や五穀豊穣を祈るための碑と思われる。
(15)伊勢神宮参拝記念碑
昭和56年(1981)1月25日伊勢神宮(三重県)に参拝した19名の名が記されている。
(16)御大礼紀念碑
平成2年(1990)11月に行われた大嘗祭に国をあげて奉祝の意が示された際、当地でも奉祝行事が執り行われ、境内地の整備等の事業が計画・起工された記念碑である。
(17)紀念松の碑
明治20年(1887)4月の伊勢神宮参拝記念樹の碑だが、松の木は現存しない。参拝者11名の名が記されている。
(18)旧常夜灯
本殿右脇奥に「願主吉田検校、世話人氏子相(そう)若者中、石工仲村長蔵」と彫られた年代のない一対の常夜灯がある。また、その脇に正面に「奉納・御神灯」、裏面に文化11年(1814)甲戌2月吉日とある2本の塔身が倒されている。
(19)山口志道碑
山口志道(号:杉庵(さいあん))は、明和2年(1765)長狭郡寺門村(現鴨川市)で生まれた。国学(古典や古代の思想や文化)を学び、晩年は仁孝天皇の侍講をつとめ、京都で78歳の生涯を終えた。碑は宮亀年(きねん)の彫刻で明治28年(1895)に建立、隷額(れいがく)は伯爵東久世通禧(みちとみ)が揮毫し、賛は江戸後期の公家岩倉具集(ともあい)が記した。右手に梅の枝を持った直衣(のうし)姿の志道の肖像は、光格天皇から賜った梅の枝に由来する。志道は、鴨川出身の歌人古泉千樫(ちかし)にも影響を与えたといわれている。
(20)神馬舎
やぶさめに騎乗する神馬は、「馬揃い」で集まった候補馬から占いによって選ばれる。
流鏑馬(やぶさめ)神事
吉保八幡神社の流鏑馬は、鎌倉時代から行われたと伝えられる。米の作柄の豊凶を占い、同時に五穀豊穣を祈願する農耕神事である。神社前の馬場の全長は120間(216m)で、禰宜(ねぎ)が疾走する馬上から早稲(わせ)、なかて、晩稲(おくて)を意味する的に3回矢を放つ。的の当たり具合により翌年の稲作の適種を占う。現在は、仲・大川面・宮山・八丁地区の氏子による「長狭流鏑馬保存会」が流鏑馬神事の保存・継承に努めている。
<作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木以久枝・中屋勝義>
監修 館山市立博物館