石堂寺(いしどうじ)の概要
南房総市石堂にある天台宗の寺院で、長安山東光院石堂寺といいます。寺伝によれば、神亀3年(726)に行基菩薩(ぎょうきぼさつ)がこの地を訪れて大塚山に堂宇を建立し、十一面観世音菩薩を刻んで本尊としたとされ、安房国札(くにふだ)三十四観音霊場の第二十番札所になっています。インドの阿育王(あしょかおう)の仏舎利(ぶっしゃり)宝塔を祀っており(滋賀県・群馬県にも同じ宝塔を蔵する寺院があり日本三石塔寺と呼ばれる)、本堂前左右には菩提樹(ぼだいじゅ)が植えられています。その後仁寿元年(851)、慈覚大師(じかくだいし)が荒廃した寺院を見て嘆き、前立(まえだち)十一面観世音、脇侍(わきじ)の持国・広目二天、千手観音、薬師如来の各像を彫刻し、堂宇を造営して「天下泰平・百姓豊楽」の護摩祈祷(ごまきとう)を行い、天台宗比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)末になったそうです。文明19年(1487)に夜盗による火災に遭い、当地の豪族丸氏や里見氏によって永正10年(1513)に堂宇を現在地に移して再興されました。また戦国期末には小弓(おゆみ)公方(くぼう)足利義明の子や孫(頼氏:後に喜連川(きつれがわ)藩主)を養育しています。国指定の重要文化財建造物4棟・仏像1躯(く)をはじめ、県・市指定文化財も多数あります。
(1) 天竺(てんじく)阿育王(あしょかおう)塔安置之所標石
仏教を世界に広めようとした天竺(インド)の阿育王が造ったと伝わる「仏舎利(ぶっしゃり)」を納めた宝塔が、当寺に「瑠璃(るり)の宝塔(ほうとう)」(水晶塔)と称されて秘蔵されている。その標識としてこの碑が、江戸下谷の川崎屋平兵衛と地元石堂の惣左衛門によって、天保12年(1841)に寄進された。
(2) 本堂及御本尊重修(ちょうしゅう)之碑
国宝だった本堂と本尊は大正12年の関東大震災での倒壊は免れたが、破損は甚だしく、翌年から2年かけて官民の協力で旧様式での修理保存を行った。郡内各地から290名が協力している。
(3) 足利地蔵と中世の石塔
地元の人が「足利地蔵」と呼ぶ岩窟中の地蔵尊である。その奥には中世の宝篋印塔(ほうきょういんとう)の相輪(そうりん)や五輪塔の宝珠・笠石、一石五輪塔などが納められている。元は国道脇のやぐらに安置されていたが、拡張工事で移転した。中世の石塔は仁王門先の阿伽井(あかい)の傍らや白寿地蔵堂脇にもある。「足利地藏」の名は、当寺が足利頼淳(よりずみ)・頼氏(幼名石堂丸)父子ら小弓公方(おゆみくぼう)足利氏ゆかりの寺であることの名残りなのだろう。
(4) 仁王門(におうもん)
ここの仁王は「蛭(ひる)取り仁王」と言われ、石堂地区の農民を悩ますヒルを退治して、その後この地区ではヒルがいなくなったという民話が語り伝えられている。また、仁王門に結びつけてある草履(ぞうり)は、足腰の悪い人が借りてはくと不思議と全快したとの言い伝えがあり、治った人は御礼として余分に草履を奉納したという。また天井に龍の絵が描かれているのを見てほしい。「等山画」とある。
(5) 石灯籠(とうろう)
真浦村(南房総市和田町)の酒屋(奈良屋)辻八右衛門が、元禄10年(1697)に奉納した。高さ1.45m。
(6) 木製の灯籠
一対の灯籠だったが右側は礎石のみ残る。特徴は木製で八角面であること。全高は2.5m。丸村珠師谷(しゅしがや)八代平吉の寄進で、昭和13年(1938)7月建立。建立後約70年を経た木製灯籠は比較的珍しい。
(7) 六十六部廻国(かいこく)供養塔
法華経六十六部の写経を66か国の社寺に納める廻国巡礼の成就を記念した塔。石堂寺住職の弟子賢栄が、宝永2年(1705)から4年をかけてなし遂げ、すべての檀家の安楽と衆生の平等利益を祈念した。
(8) 手水鉢(ちょうずばち)
願主は石堂村の吉田勘解由で、正面に「観世音御宝前」とあり、観音様に奉納されたことがわかる。明和元年(1764)7月に寄進された。
(9) 鐘楼(しょうろう)堂 市指定文化財(昭和51年)・梵鐘とも
天明3年(1783)の建築で、桁行(けたゆき)3間、梁間(はりま)2間。珠師ヶ谷村の住人大河内嘉内の作と伝えられる。梵鐘は、元徳3年(1331)に初鋳されたものを寛文3年(1663)に再鋳した。冶工は石神村鈴木伝左衛門忠尚。
(10) 山王堂 県指定文化財(昭和41年)
石堂寺の鎮守として延暦寺鎮守の日吉(ひよし)大社(滋賀県大津市)を勧請し、古くから山王社と呼ばれた。資料はないが、中世末期の装飾様式が随所に見られることから、建築年代は室町時代末期から桃山時代と推定されている。三間社流造(さんげんしゃながれづくり)。鞘堂(さやどう)に納められている。
(11) 閻魔堂(えんまどう)
室町時代の弘治2年(1556)、時の住職宗憲によって造像された閻魔大王と、西国33観音の霊像写しを安置する。西国巡礼ができない人々にそのご利益を分かち与えようとして建立された堂である。
(12) 宝篋印塔(ほうきょういんとう) 市指定文化財(昭和51年)
青銅製で、天保13年(1841)に石神村の冶工鈴木伝左衛門正尹により鋳造された宝塔。丸本郷の伊藤治兵衛が大施主となって造立した。
(13) 多宝塔(たほうとう) 国指定重要文化財(平成4年)
天文14年(1545)、前住職宗海を大本願、丸珠師谷氏を大旦那とした丸一族が、里見義堯(よしたか)・正木時茂(ときしげ)等の協力をえて建立した。天文17年の銘もある。江戸時代以前の多宝塔は関東に少ない。様式は上層唐様の折衷様式。鎌倉時代の千手観音像が安置されている(県指定)。
(14) 薬師堂 国指定重要文化財(昭和43年)
石堂寺の境外仏堂で石堂原にあったが、昭和46年に現在地に移築復元された。木造三間四方・内部に柱を立てず、中央に一間四方の鏡天井を張る。茅葺(かやぶき)の仏堂で安土桃山様式の建物である。
(15) 百八十八箇所納経塔
西国・坂東各33観音と秩父34観音で計百観音。それに弘法大師ゆかりの四国88霊場を巡ると、合計百八十八か所となる。巡拝を終えた尾張国金沢村(愛知県知多市)の竹内文左衛門夫妻が房州を訪れ、地元の念仏講仲間100名と仏道に縁を結んだ記念に建立した。明治27年。
(16) 川名玄栄碑(増間の医者どん)
玄栄は文化5年(1808)に増間村(南房総市)の医家に生まれた。江戸で医術を習得して帰郷すると、山間僻地の郷土を離れず、貧者にも医療をほどこした。その傍ら私財で塾を開き山村の子弟を教育し、明治25年(1892)84歳で没した。同29年に子弟によって碑が建立された。
(17) 孝子茂左衛門
碑の裏には茂左衛門のことを知りたければ境内の御子神氏の墓誌を見るようにとある。その墓誌では母に孝を尽くし名主にまでなった茂左衛門の人柄を称えている。石堂村の人で、文化11年(1814)76歳没。碑は明治36年(1903)に子孫の御子神松之助が建立した。
(18) 本堂 国指定重要文化財(大正5年)
文明19年(1487)の夜盗による火災の後、20余年かけて再建したとされるが、確かな年代は不詳。本堂内厨子に永正10年(1513)の墨書があるが、建築様式的にも室町時代とされる。唐様で桁行(けたゆき)3間・梁間(はりま)4間、県下最大の国指定木造建築である。本尊の十一面観世音菩薩立像・厨子(ずし)共に国指定、堂内諸像は平安末期の仏像である。
(19) 庫裏(くり) 国指定重要文化財(平成4年)
本堂の厨子・棟札とともに本堂附(つけたり)の重要文化財で、本堂とほぼ同じ室町時代の建築とされる。尚、波の伊八の彫刻が庫裏につながる客殿にある。欅(けやき)材の丸彫りで、安房の孝子家主(やかぬし)をはじめ、唐人・海馬・唐獅子・水鳥・鶴・亀・龍・兎を題材に飾られている。
(20) 旧尾形家住宅 国指定重要文化財(昭和44年)
江戸時代中期の享保13年(1728)の建築で、居間と土間を別棟にした南方系の特色をもつ分棟(ぶんとう)(別棟)型の代表的な民家。尾形家は珠師ヶ谷村(旧丸山町)の旧家で、昭和46年・47年度に解体移築された。
<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
石井道子・石井祐輔・加藤七午三(なごみ)・川崎一・鈴木正・鈴木惠弘(よしひろ)・中村祐・吉村威紀(たけのり)>
監修 館山市立博物館