妙福寺<富浦>

成就山妙福寺の概要

 南房総市富浦町南無谷(なむや)にある日蓮宗の寺院で、成就山(じょうじゅさん)妙福寺と号します。由緒によると、蓮長(若き日蓮)が14年にも及ぶ修行と遊学を終え、清澄山旭の森で「南無妙法蓮華経」の題目に教えの全てを籠めて日蓮宗を立教開宗し、法華経の行者となって名を日蓮と改めた建長5年(1253)、鎌倉に向かう途中、富浦の岡本浦から鎌倉へ船出しようとしたところ嵐で足止めを余儀なくされ、近くの岬に登って一心に祈願すると嵐が治まりました。並みの僧でないことを感じたこの地の泉沢権頭(ごんのかみ)太郎は自宅に招いて世話をしたと伝えられています。日蓮聖人は鎌倉に入ると熱心に布教活動をしますが、幾多の迫害にもあいました。伊豆の流刑が解けてから父の墓参と病身の母の見舞いに故郷小湊へ戻ったとき、東条小松原でも刀難に遭い、身を隠しながらも房州各地で布教を行っていました。この時、以前鎌倉への渡海で世話になった泉沢家に立ち寄ると、老母に「妙福」の法号を授けます。太郎が弘安2年(1297)に身延山へ聖人を訪ねると、投宿した泉沢家で老母が衣を洗ったときに裸で読経した自分の姿を弟子日法に彫刻させた坐像とお題目の掛軸を下さったので、お堂を建てて安置しました。その後に六老僧のひとり日頂聖人の弟子松本公日念上人が来山して妙福寺とし、現在に至っています。6月と10月の13日には日蓮聖人像の衣替えが行われています。

(1) 日蓮大聖人生御影霊場碑

 生御影(いきみえい)とは日蓮聖人の裸体祖師像のことであり、本尊として安置されている。その裸像を祀る霊場であることを広く世に知らせる碑である。大正8年(1919)、37世の日?(にちい)上人によって建立された。

(2) 題目塔

当山31世日光上人が明治18年(1885)9月に再建したお題目塔で、中興開基と讃えられる25世日塔上人の供養塔になっている。

(3) 和泉沢家墓地(やぐら)

祖師堂の裏山に当時この地を支配していた泉沢権頭太郎の母「妙福」を葬ったやぐら(鎌倉時代の墳墓)がある。今も残る当山24世日宣上人が記した「妙福精舎由来」によれば、日蓮聖人が流刑赦免後の布教途中、鎌倉渡海前に世話になった泉沢親子に再会し、太郎の母に法号「妙福」を授けたと伝えられている。やぐらは今も和泉沢本家により守られている。

(4) 二祖(開山)塔

 祖師堂裏手に二祖(開山)松本公日念上人の塔がある。日念上人は日蓮聖人とその高弟日頂聖人(市川市真間の弘法寺開基)の教えを受け、弘安2年(1279)に当地を訪れると草庵を日蓮宗の寺とし「成就山妙福寺」と号した。のち下総や越後などにも寺を建て、建武元年(1334)8月没した。

(5) 歴代住職の墓

 武州に生まれ、当山24世となって祖師堂を建立し、のち小西檀林135世となり、天明2年(1782)に没した日宣上人の墓。加戸村(館山市稲)に生まれ小西檀林の講師を務めた後、50年間当山の住職を務め、その間に金200両を寄付して中興の祖といわれた25世日塔上人(天保2年=1831年没)の墓。その弟子で北条村に生まれ、小西・飯高両檀林の玄義を務め、寛政10年(1798)に23歳で没した日京法師の墓などがある。

(6) 題目塔

 天保4年(1833)、23世日?(にっしん)上人の時代に檀方中によって寄進された。右側面には世の中の平和・海の安全・仏法の広がり・未来の幸せへの願いが刻まれている。石工は長須賀村(館山市)の鈴木伊三郎である。

(7) 金木熊治の墓

 南無谷石小浦(いしごうら)の人。富浦村役場に勤め、大正時代には村会議員になった。その間、枇杷栽培の普及発展を図るとともに、「枇杷の栽培」他数冊を著述し、克明な資料を残している。昭和30年(1955)12月没、86歳。

(8) 柴山千代太郎先生碑

「局長さん」の愛称で富浦町民に親しまれた柴山千代太郎は、明治元年(1868)南無谷に生まれ、千葉師範卒業後富浦小学校で教鞭をとる傍ら私塾を開設して近郷青少年の育成に努めた。さらに町の助役を務めた後永く富浦郵便局長として活躍し、地元民に大変慕われた。昭和22年(1947)4月没。同年11月弟子たちが徳を慕って記念碑を建立した。

(9) 柴田南窓の墓

弘化年間(1844~1847)に江戸で活躍した講釈師。本名は柴山常晴。南無谷村の出身で、無本読(むほんよ)みを特徴とした田辺南鶴の門人。南窓もやはり無本で、読み方にも改良を加え、柴田派を興した。古戦記を中心とした修羅場を得意とし、殊に「赤穂義士伝」は日本一の定評を得たという。弘化3年(1846)72歳で病没。門人柴田南玉らによって、東京高輪泉岳寺にある赤穂義士の墓の傍らに記念碑が建てられている。

☆ 七面山

妙福寺の北方500mの七面山はむかし浅間山と呼ばれていたが、のち領主の小浜八太夫が雨乞いの祈祷料として山林を奉献し七面堂が建立された。222段の石段の先にある七面堂には、元禄12年(1699)に身延33代日亨(にっこう)上人が勧請した木造七面大天女が祀られている。伝説では、日蓮が身延の谷で弟子や信者に説法していると、その中に妖しげな美女がいた。正体に戻るようにと花瓶の水を掛けると一丈もある大蛇が姿を現し、「私は身延山に棲む七面大天女である。この山を水火兵難から守り、法華経を信じる者には願いのすべてを聞き届けよう」と言って消えた。以来日蓮宗の守護神とされた。本地(ほんじ)は福徳を授ける吉祥天で、鬼門の一方だけを閉じ七面を開くという。毎年5月と10月の18日には絹衣のお召し替えの儀式が行われる。

(10) 石灯籠

明治時代に日参講により奉納された。石工は岩井村の青木竹次郎。当時は毎日七面堂へのお参りがあったのだと思われる。

(11) 手洗石

正面には日蓮宗と縁が深い妙見信仰を表す七曜紋を刻む。昭和14年(1939)に奉納されたのは、この当時日中戦争が行われていたことから、信徒中で戦争の勝利を祈願したもの。石工は大谷忠太郎。

(12) 戦勝満願碑

 日實法尼が、七面天女に百日の水行で日露戦争の戦勝を祈り、願いがかなったという戦勝満願碑である。富浦村の兵士たちが、明治40年(1907)、35世日覺上人の時代に建立したもの。願主の日實は18歳で当村の川名家に嫁ぎ、夫の冥福を祈るため57歳で剃髪した。

(13) 七面大明神碑

昭和28年(1953)、東京の七面講中が家内安全を祈り、また祈願満足・修行不退・衆望亦足(えきそく)・信力増進を祈願して、堂守の日榮と妙久法尼により建てられた。昔は堂守がいたようで、妙福寺墓地にも安政6年(1859)に亡くなった七面堂火守(日久信尼)の墓がある。

☆ 法華崎

富浦の原岡を過ぎると、坂之下集落からは海岸が険しく切り立ち山越を余儀なくされる。日蓮も鎌倉へ渡海の折嵐に会い、これを静めんとこの岬の頂に登った。袈裟(けさ)を松の枝に掛け、法華経を念ずると嵐が静まったという伝説から、法華崎と呼ばれるようになった。

(14) 袈裟掛け松の碑

 法華崎の頂間近な所に、明治31年(1898)に豊岡村で建立した碑で、中央にお題目と「日蓮聖人袈裟掛松」、右に「米(よね)ヶ浜へ渡海の旧跡」、左に「建長5年(1253)5月中旬」とある。

(15) 日蓮上人渡海之霊蹟碑

日蓮聖人の生誕700年記念に安房日蓮宗寺院が鎌倉渡海の地に建立した「渡海霊蹟(れいせき)」の碑で、袈裟掛け松の碑と並立している。

* 衣洗い井戸

清澄山で立教開宗の宣言を行った日蓮聖人が、文永11年(1274)に東条の地頭東条景信に小松原で襲われたあと、鎌倉に渡航するため当地を訪れた時に、血で汚れた衣を泉沢権頭太郎の老母に洗ってもらったという井戸がある。私有地のため場所の特定は避けました。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 金久ひろみ・鈴木以久枝・鈴木正・中屋勝義>
監修 館山市立博物館