安房の芭蕉句碑【2】(南房総市・鴨川市)

安房の芭蕉句碑めぐりマップはシリーズ3部作です。安房地域で確認されている芭蕉句碑は19基あり、当マップには7基の情報を掲載しています。安房の芭蕉句碑【1】と【3】を併せてご参照ください。

芭蕉と芭蕉句碑

松尾芭蕉(ばしょう)〔寛永21年~元禄7年(1644~1694)〕は江戸時代前期に活躍した俳人である。滑稽(こっけい)が本質であった俳諧を蕉風(しょうふう)と呼ばれるきわめて芸術性の高いものへと昇華させた。芭蕉の作風は当時から高い評価を受け、門人たちは房総へも遊歴(ゆうれき)した。房総の俳人たちも神格化された芭蕉を慕い、連(れん)と呼ばれるグループを結成して明治時代まで活動した。句会を取り仕切り添削を行った宗匠(そうしょう)は、蕉風を伝える江戸の俳人たちと広く交流を持った。芭蕉を慕う俳人たちが、全国に建てた芭蕉句碑は2500基にも及ぶとされ、安房地方でも現在19期が確認されている。芭蕉が眠る近江国大津の義仲寺(ぎちゅうじ)は、宝暦11年(1761)以来各地から芭蕉句碑建立の申告を受け、『諸国翁墳記(おうふんき)』に掲載して増補しながら刊行し続けていた。安房地域からは新御堂(にいみどう)と蓮華院の2基が紹介されている。

(8)あの雲は稲妻を待たよりかな

南房総市白浜町野島崎629 厳島神社

天保4年(1833)8月建立。稲妻は秋の季語で、暑中に涼を求めて「あのただならぬ様子の雲は、正に稲妻が走る気配だ」と詠んでいる。久保の俳人井上杉長(さんちょう)の門人である方壺・平雄・杉奴や■斎・■風・宇明の6名により建立。井上杉長は文化文政期に活躍した俳人であり、小林一茶とも交流があった。宇明はその子息、石井平雄は朝夷(あさい)郡平舘(へだて)村の医師、方壺は千田村長性寺の住職である。

厳島神社を北東方向に下り、旧法界寺(ほっかいじ)敷地内の岩場に、宗匠杉長の供養塚「杉長墳(さんちょうふん)」の碑がある。裏面を見ると句碑と同じく、杉長の子息宇明、門人の平雄・方壺・杉奴の名と建立年「天保四年癸巳(みずのとみ)仲秋」が刻されている。江戸時代には法界寺は厳島神社の別当寺であったことから、杉長の五回忌に墓碑を法界寺に、追福の芭蕉碑を厳島神社に、それぞれ建立したものであろう。

(9)あの雲は稲妻を待たよりかな

所在地(8)に同じ

明治19年(1866)5月建立。句碑(8)の傷みによりその左側に再建された。再建者銘はない。裏面に長尾士族の恩田豹隠(ひょういん)が書いたとある。碑面は解読困難。

豹隠は恩田利器(としなり)といい、兵学を指南する学者。明治24年(1891)没、享年83才。元治元年(1864)、駿河城代という幕府の要職に就いた田中藩(静岡県藤枝市)主本多正訥(まさもり)の下、兵学師範や藩政の重職を担った。大政奉還後の徳川慶喜(よしのぶ)の駿府移封により、本多氏は安房へ転封して長尾藩4万石の藩主となり、恩田豹隠も当地へ。廃藩後は白浜の私塾で漢学等を講義するなど人材育成に当った。

(10)あの雲は稲妻を待たよりかな

所在地(8)に同じ

昭和44年(1969)建立。黒御影石の平板碑で、(8)(9)の2基の風化を受け、厳島神社の狛犬と併せて少し離れた場所へ奉納された。時代とともに建て替えられるところに、当句への思いが込められているようで、3基の建立事情に思いが至る。

(11)鐘つかぬ里は何をか春のくれ

南房総市大井220 大徳院(だいとくいん)

文化6年(1809)6月建立。建立者は勝山村(鋸南町)の呂風(ろふう)。芭蕉が奥の細道旅中であった元禄2年(1689)の作。当句は曾良(そら)の『俳諧書留』の「室(むろ)の八嶋(やしま)」に記されたもの。句は、「暮れていく春を、何をたよりに惜しめばよいのか」の意。春の暮色に包まれる頃合いと大徳院周辺の景色とが重なり、建立された句碑に採用されたと考えられる。

呂風は句碑建立を記念して句集『苔筵(こけむしろ)』を出版しているが、勝山に滞在したことのある小林一茶編の撰集『株番(かぶばん)』の中に『苔筵』刊行年が書き込まれていることから、文化6年(1809)が碑建立の年であると知られている。なお、句碑の傍らに文化7年(1810)銘の墓碑(信士・信女)がある。句碑とかかわるものか興味を引かれる。また、内陸の道が交差する位置にある大徳院境内には延命地蔵堂があり、清澄寺住職金剛有性(ゆうしょう)発願(ほつがん)による御詠歌額と後藤義光作の石造延命地蔵菩薩半跏(はんか)像(明治5年作)が奉納されている。

(12)山里は万歳おそし梅の花

鴨川市西339-1 旧水田家住宅

明治23年(1890)2月建立。建立者は不明だが、当家の水田新作が建立した出羽三山碑と同じ年で材質も近似している。水田新作は大蔵大臣を務めた水田三喜男の曽祖父。行者として全国を修行し、出羽三山碑を向かいの山の頂上に建立した。芭蕉も出羽三山を訪れ、同中には多くの句碑が建立されている。新作は明治26年(1893)没。三山碑は水田家墓所に移され新作の墓石とされた。

句碑は、旧水田家住宅敷地内、梅の木の下に建つ。この句は、元禄4年(1691)1月10日頃、伊賀の郷里で詠まれた。出典は「真蹟懐紙(しんせきかいし)」。季語は「万歳(ばんざい)」と「梅の花」で、季は春。「辺鄙(へんぴ)な山里では新春を寿(ことほ)ぎ各戸を廻る万歳が遅い。正月も半ばすぎて梅も花盛りを迎えた頃ようやく来たことよ」の意。山部会この西野尻の里も、同様であったと偲ばれる。万歳とは、年初に家々を回り、賀詞を歌い舞って米銭を乞い受ける門付け(かどづけ)芸のこと。

旧水田家住宅は国の登録有形文化財で、茅葺の母屋や庭園、周辺環境は美しく保たれ一見の価値がある。(毎週火曜日閉園)

(13)雲をりゝゝ人を休める月見哉

鴨川市西739-1 蓮華院

弘化2年(1845)建立。芭蕉の句を中心に「雪月花」(四季の自然美の総称)の三句を並べたと推測される。左右の句は摩耗が激しく解読困難だが、右に「花の香…」、左は「…雪…」の文字が見え、春・冬の趣を句に託してあるようである。中央の句(秋)は貞享2年(1685)、芭蕉40才の作(あつめ句真跡懐紙)。「雲が月に折々かかり、月見の人をしばし休ませることだ」の意で、秋の季語「月」にかかる雲の効用を、山里深い蓮華院の境内地からの眺めと重ねているようである。左脇には「弘化二乙巳稔(きのとみねん)冬七十七叟(そう) 尾崎氏」とあり建立年と建立者名が刻されている。

尾崎氏は、長狭地方の宗匠で常[盤]連を主宰した「日々房鳥周(ちょうしゅう)(尾崎氏)」と考えられ、喜寿を迎えて「雪月花」の句碑を建てたと思われる。時に鳥周は数えの76才、長狭(ながさ)郡磯村の医師であった。なお、『諸国翁墳記』には、当句碑建立の催主は卜山(ぼくざん)・翠斎であると記載があるが、両氏と尾崎鳥周との関係はわかっておらず、謎の部分も残されている。

(14)海暮て鴨の声ほのかに白し

鴨川市太海浜445 仁右衛門島(にえもんじま)

天保11年(1840)3月、常[磐]連が建立した。磯村の尾崎鳥周、如松庵双鳩(じょしょうあんそうきゅう)、此杖菴(しじょうあん)寛雪らが中心となって建てたとされている。「海が暮れて闇に包まれようとする中、耳に届く鴨の声がほのかに白く感じられる」という意味の句である。鴨の声を白いと表現したことが秀逸として評価が高い句。『野ざらし紀行』に収録されており、貞享元年(1684)の作。

仁右衛門島は千葉県指定の名勝地として知られ、自然に恵まれた美しい景色が満喫できる。島内には歌碑や句碑がいくつもある中で、この芭蕉句碑は芭蕉塚として親しまれている。渡し舟料金、並びに、入島料が必要。営業時間は8:30~17:00。但し、天候等の理由により臨時休業あり。車は近隣の有料駐車場を利用のこと。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」 愛沢香苗・青木徳雄・丸山千尋・森田英子 2021.4.19 作
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