日蓮は貞応(じょうおう)元年(1222)、安房国長狭郡東条郷片海(かたうみ)の小湊に生まれたとされている。12歳で天津の清澄寺(せいちょうじ)に上り修業し、16歳で出家得度して是正房(ぜしょうぼう)蓮長と改名した。後、鎌倉に遊学して念仏宗や禅宗を研究し仏教の奥義を極め、衆生済度の正法(しょうぼう)は「法華経」の教えであるとの結論に達し、法華経の行者として一生を捧げる決意を固めた。建長5年(1253)、32歳の時、清澄寺の一角旭が森で「南無妙法蓮華経」を唱え、法華宗の開宗宣言を行い、法名を日蓮と改名した。日蓮は鎌倉の松葉谷(まつばがやつ)に庵室(あんしつ)を構え、「辻説法(つじせっぽう)」という新しい方法で法華経の布教に努め、伽藍(がらん)仏教から街頭仏教へと日蓮は大衆教化の道を開いた。正法を法華経とすべきだと北条時頼に進言したが用いられず、法敵として怒りを招き、小松原法難(こまつばらのほうなん)、龍口法難(たつのくちのほうなん)など数々の法難を受け諸宗批判の罪に問われ佐渡流罪となった。文永11年(1274)、日蓮は赦免されて鎌倉へ帰ったが、甲斐国巨摩(こま)郡の身延山に退隠し、著述と弟子の育成に努めることになる。弘安5年(1282)、日蓮は湯治のため常陸国へ向かう途中、武蔵国の池上宗仲(むねなか)邸で死を悟り、弟子の中から法華経の法燈を継ぐ六老僧を定めた。10月13日、滞在中の池上邸にて死去。享年61歳。日蓮が安房と鎌倉を行き来していた時代に立ち寄った安房の土地には、様々な伝説が残されている。
(1)乾坤山日本寺
鋸南町元名184-4(鋸山)
*石の堂
鐘楼堂からの上がり口に、「日蓮聖人の石の堂」という、昔日蓮が護摩(ごま)修行したという霊蹟が『安房誌』に紹介されている。
*風土かづら
「大仏の嶺石(みねいし)の辺りに見られる風土かづらは、水腫(みずぶくれ)を治す効果があるというので、土地の人たちに珍重されている。日蓮の教えたもう薬草」と『日本の伝説 安房の巻』に紹介されている。
(2)中谷山妙本寺
鋸南町吉浜453-1
本尊は十界曼荼羅(じっかいまんだら)。平安時代末に吉浜村の地頭佐々宇(さそう)家の側に法華堂があったという。日蓮が蓮長と称していた時、房州から鎌倉へ渡り京・奈良へ遊学の途次には必ず法華堂に立ち寄り参籠(さんろう)されたという。日蓮宗富士門流(ふじもんりゅう)の日郷が元徳年間(1329~1330)に、宗祖日蓮誕生の地を慕い房州に下り、保田の地頭佐々宇左衛門尉(さえもんのじょう)から法華堂の寄進を受け、建武2年(1335)に当寺を開創した。里見氏と北条氏の戦で多くの宝物を失ったものの、文和2年(1353)に宝蔵が落成するや総本山の身延から移された多くの日蓮真筆や日蓮等身木造坐像など日蓮にまつわる宝物が残され、年に一度虫払会(むしばらいえ)が催され保存されている。
(3)妙典台 鋸南町下佐久間
文永元年(1264)、日蓮は父の墓参りに鎌倉から安房へ来た時、妙典台で説法をした。人々は感激し、その地に瑞竜山妙典寺を建立した。現在は寺の跡もなく、地名に妙典台と残っているのみである。長年無住だった寺は、元禄元年(1688)に醍醐新兵衛が、勝山の土地を寄進して再建し、「醍醐山妙典寺」として名を残している。
(4)成就山妙福寺
南房総市富浦町南無谷(なむや)119
日蓮は伊豆の流刑が解けて父の墓参と母の見舞いに小湊へ戻った時、小松原法難(こまつばらのほうなん)に遭うが、身を隠しながらも房州各地で布教を行った。以前、鎌倉へ向かって船出した折、逗留した南無谷(なむや)に立ち寄ると泉澤権頭(ごんのかみ)太郎の老母の願いを入れ「妙福」の法号を授けた。弘安2年(1297)、太郎が身延山に日蓮を訪ねると、弟子に彫らせた日蓮の読経(どきょう)中の裸坐像と題目の掛軸を頂いたので、堂を建て安置した。後に、六老僧の一人日頂の弟子日念により成就山妙福寺と号する寺になった。
(5)衣洗い井戸(血洗いの井戸)
南房総市富浦町南無谷(なむや)
泉澤権頭(ごんのかみ)太郎の老母が鎌倉へ向かう日蓮の衣を洗った井戸。着替えがなかったので日蓮は裸のまま読経した。妙福寺の北100m程の国道脇に「日蓮聖人衣洗い井戸」の看板がある。また、小松原法難での血の付いた衣を老母が洗ったので、血洗いの井戸という別名もある。
(6)南無谷(なむや)
南房総市富浦町南無谷
*南無谷の地名
南無谷は昔、泉澤と呼ばれる名の村であった。建長5年(1253)、鎌倉へ渡ろうとした日蓮は3日程、地元の豪族泉澤権頭(ごんのかみ)太郎の家に逗留した。これが縁となり文永元年(1264)再び泉澤家を訪れた日蓮は、泉澤家の人たちに熱心に法華経を説いた。やがて日蓮宗が村中に広まり、村の名が南無妙法谷(なむみょうほうや)村と呼ばれるようになったが、いつのころからか略して南無谷村になったという。
*和泉澤(いずみさわ)の名字
南無谷区には「和泉澤」という名字の家が多くある。日蓮が、地元の豪族泉澤権頭太郎の世話になった折、「人は皆、和を持って暮らさなければならぬ、あなたの名字に和を加えなさい」とすすめ、泉澤を和泉澤に変えたといわれている。
*角(つの)なしサザエと鮑(あわび)の恩返し
南無谷の磯には大きな角のサザエがいた。日蓮が鎌倉へ渡るため乗船する際、サザエを踏みつけ足にけがをしてしまうが、怒らず「サザエには、角の無い方がいい」と言った。サザエに罰があたり自慢の角はたちまち消えてしまったという。サザエに悩まされていた鮑はこれに感謝をして日蓮の乗る船に浸水するような穴を見つけると、その穴に吸い付いて塞いだそうだ。
(7)小三郎坂
南房総市富浦町豊岡
岡本(豊岡)から南無谷へ抜ける険しい崖道がある。あえぎながら登る日蓮を近在の漁師小三郎が背負って登ったという。この坂道を「小三郎坂」と呼ぶようになった。
(8)法華崎
南房総市富浦町豊岡
建長5年(1253)、日蓮は鎌倉での日蓮宗の布教を目指し、小湊から岡本(豊岡)の港へ来たが、風浪荒く乗船できなかったので、付近の丘陵に登り、海上安全・心願成就を祈ったところ、激しい風浪も収まったといわれている。現在「法華崎」と呼ばれている所がその場所であり、袈裟をかけたという「日蓮上人袈裟掛松」の碑が建っている。
(9)法輪山法蓮寺
館山市下真倉2487
文永元年(1264)の創立。日蓮が文永元年鎌倉から安房へ戻った時、三原郷(和田町)の地頭池田和泉守が、自分の館に日蓮を招いて7月29日から3日間の説法を願った。和泉守は日蓮に帰依(きえ)して入道し名を法蓮と改め、それまであった草庵を「法輪山法蓮寺」と改称したという。
(10)勝栄山日運寺
南房総市加茂2124
勝栄山日運寺の本尊は日蓮聖人。昔は勝栄坊という真言宗(天台宗という説もある。)の小堂で、日蓮が文永元年(1264)9月、小湊へ帰る途中このお堂に止宿した。当時の坊主(ぼうしゅ)であった勝栄坊行然(ぎょうねん)は日蓮の人徳と高説に敬服し、弟子となり日蓮宗に改宗したという。約300年後、里見の重臣正木時通(ときみち)と弟頼忠(よりただ)は元亀(げんき)2年(1571)に勝栄坊を再興し勝栄山日運寺と改めた。勝浦正木氏の菩提寺であり、頼忠は大檀那として寺領を寄進している。
*日蓮聖人御杖(おつえ)井戸
文永元年(1264)当地に立ち寄った日蓮は、周囲の農民から井戸水が悪くて飲み水に不自由していると聞き、自ら錫杖(しゃくじょう)で聖地を定め、掘ってみると清水がこんこんと湧き出たという。大正中期まで十王堂跡(現集荷場)にあったといい、大正大震災で水脈が変わったが、いかなる旱魃(かんばつ)でも水が枯れることがなかった。昭和8年(1933)頃に道路改修のため黒門(くろもん)跡前に移され、現在は境内に移転している。
(11)日蓮を救った鮑(あわび)
南房総市和田町小川
日蓮は『立正安国論』を著して幕府に献じ、諸宗を責め、幕政を批判したため、文永8年(1271)佐渡へ流罪となった。日蓮を乗せた小舟が佐渡へ向かう途中、荒れ狂う波のため船底の栓が取れてしまい、沈没を待つばかりとなった。こんな危機に日蓮が荒れ狂う海の海面にお題目を書くと、どこから現れたか大きな鮑が船底の穴をぴたりとふさぎ、浸水は止まって、日蓮は危うく難を逃れたという。日蓮を救った鮑の貝殻が、小川の日蓮宗妙達寺の檀家に保管されている。貝殻の内側には「南無妙法蓮華経」と刻まれていて、その家では家宝としてお祀りしているという。
<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 刑部昭一・金久ひろみ・殿岡崇浩>(2020.1.19作)
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