日蓮聖人とその伝説(鴨川編)

日蓮(1222~1282)は自身の生誕地を安房国長狭郡東条郷片海(かたうみ)(鴨川市小湊)と記しているが、その正確な場所は分かっていない。12歳で清澄寺に上り17歳まで道善房(どうぜんぼう)に師事した。鎌倉や比叡山延暦寺等で修業し、法華経が釈迦の真実の教えであると確信すると、32歳で立教開宗をした。翌年、領家(りょうけ)の尼に代わり東条郷(鴨川市)の地頭東条景信(かげのぶ)と係争し勝訴したため、念仏信者の景信の反感をかい鎌倉へ渡ることになった。鎌倉・伊豆での法難後43歳の時、父の墓参りと病気の母を見舞うため帰郷。東条郷の小松原で景信に襲われ、天津領主工藤吉隆(よしたか)と弟子の鏡忍房(きょうにんぼう)が殺害されてしまう。日蓮も左腕を折られ眉間に疵(きず)を負った(小松原法難(こまつばらのほうなん))。このような出来事の中で、この地域には日蓮に関する多くの伝説も生まれてきた。その後、鎌倉へ戻るが、50歳の時逮捕され佐渡流罪が決まる。途中、江の島近くの龍口(たつのくち)で斬首(ざんしゅ)されそうにもなった。53歳の時、流罪を許され鎌倉へ戻るが、身延に入山した。61歳の時、体調を崩していた日蓮は常陸国へ湯治に向かうが、武蔵国の池上宗仲(むねなか)邸に留り、10月8日に日昭(にっしょう)・日朗(にちろう)・日興(にっこう)・日向(にこう)・日頂(にっちょう)・日持(にちじ)を本弟子(六老僧)に定め、13日に入滅した。葬儀後、25日に遺骨が身延へ到着した。

(1)蓮華潭(れんげふち)

鴨川市小湊

日蓮の生家は地震で海中に沈んだが、大弁天・小弁天付近とされる。貞応(じょうおう
)元年(1222)2月16日の日蓮誕生時には、家の庭先に清水が湧き、渚に蓮華の花が咲き誇り、海中に鯛が群れ集まったといわれている。

(2)鯛の浦(妙(たい)の浦)

鴨川市小湊

日蓮の誕生時に鯛が群れをなした蓮華潭で、後年、日蓮が七字の題目「南無妙法蓮華経」を海へ投げると、海上に字が現れ、鯛が群集した。この一帯の鯛は日蓮の化身とされ、今も漁が禁じられている。

(3)小湊山誕生寺

鴨川市小湊183

建治2年(1276)、日蓮生家の地に日蓮の誕生と母梅菊の蘇生延寿(そせいえんじゅ)を記念して建てられた。明応7年(1498)の津波により流失。その後、現在地に再建された。境内で湧いた井戸水を、誕生水と名付けている。

(4)妙日山妙蓮寺

鴨川市小湊129-1

文永4年(1268)に日蓮の母梅菊(妙蓮)が亡くなると、日蓮は父重忠(しげただ)(妙日)の墓所に母の墓塔を建て、妙日山妙蓮寺と命名した。両親閣ともいわれる。境内に日蓮御手植えの廣布梅(こうふばい)や蘇生櫻(そせいざくら)の碑がある。

(5)岩高山日蓮寺

鴨川市内浦3094

文永元年(1264)、小松原法難(こまつばらのほうなん)をうけた日蓮は、天津領主工藤吉隆の家臣北浦忠吾(ちゅうご)・忠内(ちゅうない)兄弟にこの地へ案内された。疵を洗った湧水、身を潜めた岩屋がある。岩屋の砂を疵につけると痛みと出血が止まったといわれる。また、吉祥翁(きっしょうおう)に導かれ、岩屋に薬草を褥(しとね)として敷き、砂を傷口にあてて治療したという話もある。老婆お市が寒さ凌(しの)ぎと疵の養生にと、被っていた綿帽子(わたぼうし)を日蓮に差し上げたといわれる。

(6)日蓮の父、貫名(ぬきな)次郎重忠(しげただ)公(こう)流着の地

鴨川市内浦

昭和46年(1971)建立の石柱に、建仁3年(1203)に北条時政により当地へ流されたが、代官滝口兵庫朝家が世話をしたと記されている。

(7)東光山西蓮寺

鴨川市内浦1726

西蓮寺に伝わる伝説では、日蓮は寺の薬師の前に捨てられていた赤子で、薬王丸(薬師丸)と名付けられ、12歳まで養育されて清澄寺に上がったとされている。境内には日蓮の乳母(うば)雪女(ゆきじょ)の墓がある。

(8)光瑞山高生寺

鴨川市内浦544

建長5年(1253)、法華経こそが正法(しょうぼう)だと説くため清澄寺へ行く日蓮は、自分が殉じた時の両親の嘆きを思い、生家の方向を見返って涙した。その場所に中老僧日保が一宇(いちう)を建立した。その後、地震・津波により現在地へ移転している。江戸時代の寛延3年(1750)に鋳造(ちゅうぞう)された日蓮聖人像は、日蓮の銅像の立像としては日本最古である。

(9)朝日堂

鴨川市内浦

高生寺の元の場所。現在は山裾にある。中腹には狭い平坦地があり、文化12年(1815)に建立された法師の墓が祀られている。『日本の伝説安房の巻』にあるように誕生寺を真向かいに見渡すことができる。

(10)天津神明神社

鴨川市天津2950

日蓮は、遺文(ゆいぶん)の中で「昔は日本第二の御厨(みくりや)、今は日本第一なり」、「辺国なれども、日本国の中心のごとし」と記す。開宗後、妙法弘通(ぐづう)を天津神明神社に祈念し川向(かわむこう)の御本尊(曼荼羅(まんだら))を納めたといわれる。

(11)明星山日澄寺

鴨川市天津1850

日蓮が母を見舞うときに随行(ずいこう)した日澄が、清国寺(真言宗)の住職を論破し寺号を日澄にした。小松原法難で討ち死にした天津領主工藤吉隆の菩提を弔うため、寺は吉隆の館跡である現在地へ移転した。

(12)涕涙石(ているいせき)

鴨川市清澄

清澄寺は女人禁制のため母梅菊は善日麿(ぜんにちまろ)(日蓮の幼名)に女人堂で面会したが、修業の妨げになるので来ないように諭された。梅菊が堂の近くの石に座り、善日麿の無事を祈って涙したといわれる岩。

(13)千光山清澄寺

鴨川市清澄332-1

善日麿は天福元年(1233)に清澄寺に入山し天台宗を学び、嘉禎(かてい)3年(1237)に出家し名を蓮長と改めた。境内にある凡血(ぼんけつ)の笹の黒い点は、霊感を得たとき吐いた凡血といわれる。延暦寺などでの修業を終え、建長5年(1253)、故郷に帰った日蓮は、4月28日早朝、旭が森で太平洋から昇る朝陽に向かって題目を唱え、法華宗を立てることを宣言して日蓮と名を改めた。銅像は大正12年(1923)に建立された。

(14)光玉山多聞寺

鴨川市浜荻1145

文永元年(1264)、日蓮が鎌倉から安房への帰途、毘沙門天(びしゃもんてん)(多聞天(たもんてん))の変化(へんげ)した童子が、一夜の宿を提供するため住職に引き合わせて姿を消した。日蓮は住職や郷士(ごうし)北浦忠吾(ちゅうご)・忠内(ちゅうない)兄弟らを教化改宗させた。寺の宗派は天台宗から日蓮宗に、寺号は多聞寺に改められた。

(15)高祖(こうそ)大士(だいし)御疵洗(おきずあらい)井水(せいすい)之霊地

鴨川市浜荻

日蓮は北浦兄弟邸内の姥が池で、小松原法難での疵(きず)を洗い手当を受けた。池は明応7年(1498)の津波で埋もれたが改修され、疵洗い井戸として伝えられる。井戸の前に日蓮が腰掛けたとされる石がある。

(16)袈裟山掛松(けいしょう)寺

鴨川市広場1971

小松原法難のとき北浦兄弟が駆けつけ、ここで日蓮の袈裟を脱がし、路傍の松に掛けて介抱した。その後、この木は切られて日蓮の像を彫刻し当寺に安置された。袈裟掛けの松は植え継がれて4代目になっている。また、日蓮が法難直後に川のほとりにあった松に袈裟を掛け、長い一夜を過ごしたので、川は夜長川と呼ばれているなどの話がある。

(17)上人塚(しょうにんづか)

鴨川市広場

小松原法難での工藤吉隆殉教の地。日蓮は妙隆院日玉の法号を贈り、吉隆をこの地に葬った。後に、人々がこの地に塚を築いて上人塚と呼ぶようになり、鏡忍寺(きょうにんじ)住職日長は明和5年(1768)に碑を建立している。平成25年に小松原法難での死傷軍馬供養の馬頭観音碑が建立された。

(18)小松原山鏡忍寺

鴨川市広場1413

小松原法難で亡くなった鏡忍房(きょうにんぼう)と吉隆の霊を弔って、弘安4年(1281)に妙隆山鏡忍寺が建立された。後に小松原山に改めた。御法難堂は、日蓮が鏡忍房を葬り小松を植えて墓標とした場所である。降神(こうじん)の槇(まき)には、東条景信(かげのぶ)が再び日蓮に刀を振りかざすと、槇が煌(きら)めき法華経を守護する鬼子母神(きしぼじん)が現れ、景信が落馬したという伝説がある。

(19)花房山蓮華寺

鴨川市花房1236

清澄寺での立教開宗により、東条景信に追われた日蓮が逃れた寺。景信の見張りが緩むと、鎌倉遊説に先立って生家を訪ねた。父に妙日、母に妙蓮の法名を授け、自らは蓮長を改め日蓮と名乗ったという伝承もある。文永元年(1264)に父の墓参りと母の病気見舞のため故郷へ帰るが、工藤吉隆邸へ向かう途中、小松原で襲われ再び蓮華寺に逃れた。見舞いに来た旧師の道善房(どうぜんぼう)に法華経を信じるように諌(いさ)めたという。

(20)日蓮聖人御疵洗之井戸

鴨川市花房

蓮華寺への入り口の井戸で、日蓮が法難での傷を洗ったとされる。

(21)仁右衛門島

鴨川市太海浜445

神楽岩は、日蓮が朝陽を拝んで南無妙法蓮華経と唱えた岩とされる。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 刑部昭一・金久ひろみ・殿岡崇浩>(2020.1.19作)
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