江戸~大正時代の交通標識とその由来
かつて道路上におかれていた標識を、その目的や設置者の違いなどにより、道標・里程標・道路元標の3つに分けて紹介しています。
A:道標
旅人が道を間違えずに目的地へ行けるよう、道案内に供せられた標柱。
何かを祈念するなどの目的に加え、交通の利便性の向上のため主要街道と地方道、あるいは地方道と生活道路などが交差する地点や峠、また順礼道の交差点などに置かれていた。行き先の方向や距離などを記してある。
江戸時代は多くの民衆が順礼に参加するようになり、順礼道を案内するものが多かった。また目的地へ誘導するものもあった。
講中による六地蔵に道標を兼ねたり、廻国塔や出羽三山碑などに兼ねて建てられたものが多く見られる。
(2)和泉式部供養塚案内
那古寺観音堂右脇階段途中
中央に「和泉式部」、左に 「船形へ通り抜け」、右に「是より一丁余」 と記し、上部には差し指が彫り出されている。山頂の和泉式部供養塚への案内標。明治 34年(1901)に住職安達盛雅が設置した。石工は川名の大山惣助。
(4)車地蔵
館山市那古198番地付近 バイパス交差点南東
地蔵尊の水受け前面に「右 清澄へ九里 左 大山へ四里」とあり、これが距離と方向を表した道標。願主は那古村の順清と川崎の清右衛門。施主は那古村講中で、後生車を伴う延命地蔵を祀る。宝暦4年(1754)11月建立。元は玉泉院駐車場入口付近(那古寺から平群や長狭方面への分岐点)にあったが、国道バイパス拡張工事に伴い30m程南の歩道脇に移された。
(5)横山薬師堂案内
館山市正木1778番地付近 正木上バス停そば
かつて正木の横山にあった旧薬師堂への道しるべ。「横山やくしみち」の文字と仏手の「差し指」を大きく描き、その左に「是より十二丁」とある。建立は天保6年(1834)5月。江戸時代から横山の湯として鉱泉が知られていた。
(6)六地蔵
館山市湊240番地付近 パチンコ店裏住宅街
六地蔵が刻まれた道標で、「右正木 左やわた」と刻まれていたというが、石の劣化が進み「右」が見えるのみ。元は40m程北の三叉路中央にあったが交通の障害になり現在地へ移された。子供の戒名があり、(7)とともに流行病で死んだ子供たちの供養のため、江戸時代に建てられたと伝えられている。
(7)六地蔵
館山市八幡170番地付近 十字路
上部3面に六地蔵を表し、左側面に「北まさき 東こくぶん寺」の文字。正面下部は石が劣化し文字は読めないが、「西やわた」と書かれていた。隣村や目印となる国分寺を案内した道標。ここは湊・八幡・北条の境界にあたる。
(10)筆子塚
館山市立博物館屋外展示場
正面に「向なごみち 右きよすみ 左りまる(丸)」とある。文政5年(1822)に竹原村に建てられた。越後国小千谷出身の寺小屋師匠のために加茂村の弟子たちが建てた供養塔で、筆子塚になっている。内房と外房を結ぶ竹原(たけわら)の加茂坂(旧道)の峠の三叉路にあったものを博物館に移設した。
(11)廻国行者供養塔
館山市立博物館屋外展示場
「南一之宮道」「北国分寺道」とあり、宝暦8年(1758)に建てられた。長須賀のベニヤの交差点に在ったものが博物館に移設された。廻国行者の姿を彫り出し、その戒名が刻まれている。一之宮道とは安房神社への道の意味。
(14)「臥龍松」案内
館山市塩見200番地 松の堂
墓地の中程に白河藩松平定信が名付けたといわれる名勝「臥龍松」の石碑がある。松はすでにない。碑は明治26年(1893)に、柏崎区の服部重右衛門が建てたもので、正面に「東 館山一里二十四丁」「西 洲嵜一里二十六丁」とある。館山と洲崎(すのさき)を結ぶ旧道に建てられていたものが移設された。
(18)子安地蔵
館山市神余(かなまり)3192番地 上ノ台集会所
集会所入口に建つ子安地蔵に、「右くにふだみち 文化二年(1805)八月」と記される。安房国札28番の神余の松野尾寺、29番の犬石の金蓮院、32番の出野尾(いでのお)の小網寺へとつながる観音霊場国札道を案内している。
(19)道標
館山市佐野 房州カントリークラブ裏の山中
頭頂部分を残して全体が埋もれ、碑面は見ることができない。記録によると東面は小塚大師と白浜、南には安房神社と布良(めら)村、北は那古観音と館山までの距離が記され、西面には佐野村と平郡(へいぐん)正木村の4名が世話人となり、東京日本橋在住の安川栄次郎が明治13年(1980)5月に建てたことが記されている。ここはかつて神余・佐野・真倉(さなぐら)への三叉路だった。到達困難。
(20)出羽三山碑
館山市東長田 観音院東方の山中
観音院の東、個人所有の山中の古道路傍に出羽三山碑が置かれている。碑の正面は出羽三山と行者の戒名が彫られ、右側面に「向て杉本道 右たて山道 左はま道」と刻まれている。天明4年(1784)9月建立。到達困難。
(22)廻国供養塔
館山市作名317付近 作名浄水場手前柳作路傍
廻国供養塔が納まる岩屋左脇からの順礼道(入口)がある。廻国供養塔の右側面に「是よりすぎもとみち」とあり。国札観音巡礼33番札所の杉本山観音院を案内している。全国を廻って大乗妙典(法華経)を奉納した葛飾郡の行者名と阿弥陀三尊の種字がある廻国供養塔。安永2年(1773)の建立。
(23)廻国供養塔
館山市国分66番地 国分郵便局の三叉路脇
廻国供養のために建てた道標。外房と内房を結ぶ街道と府中と国分寺を結ぶ道の辻にあたる滝川用水掘を渡る橋のたもとにあり、「行者法師歓喜」と「歓道」の廻国供養塔になっている。寛政10年(1798)建立で、「東きよすみ 南こくぶん寺道」「南一のみや 西やわた・なこ寺道」とある。並んで地蔵尊と三義民刑場跡・孝子塚への案内道標がある。「左孝子墓道」は明治24年(1891)、「三義民殉難之跡・孝子塚」は大正14年(1925)の建立。
(24)参詣道案内
館山市山本2277付近 稲村バス停箱橋交差点
明治36年(1903)、莫越山(なごしやま)神社への参詣道の案内として「莫越山祖神教東京講社」(講仲間)が建てた。「右一里十九町廿八間」とある。莫越山神社は古代忌部氏を祀った建築の祖神とされ、祖神教講社は建築関係者の講である。なお、館山市二子(ふたご)の九重(ここのえ)駅前加登屋付近の旧国道にも同じ道標が1基あり、「左一里九町十間」と刻まれている。
(25)石塔基台のみ
館山市二子198の1番地 安養寺内墓地
地蔵菩薩の前にある台石に、右側面に「右ハちくら道」。左側面に「左ハきよすみ道」、正面には「向ハたて山道」とある。稲村の施主名及び元文2年(1737)5月の建立年が刻まれる。元は、南房総市千倉町と館山市稲(いな)間の県道187号と国道128号をつなぐ旧道入口(加登屋左側角)にあった。
(26)六地蔵
館山市薗(その)176付近 国道128号水玉バス停付近崖下
館山市薗を起点にして、南房総市「松田まて壱里廿町」と館山市「館山迄壱里十六丁」の銘が側面にある。また正面には、円形に配置した「光明真言」(24梵字)や六地蔵を刻む。正徳4年(1714)2月に念仏講や順礼講仲間が建てた道標を兼ねた六地蔵で、道標としては現在、市内最古である。
(27)観音・勢至菩薩坐像
館山市竹原 相賀の山中(加茂坂)
天明3年(1783)に、南房総市加茂と館山市竹原を結ぶ旧主要道の峠道途中(加茂坂)に建てられたもの。上部には阿弥陀如来の両脇侍である聖観世音菩薩(右)と勢至菩薩(左)の坐像が並ぶ。下部に安房の名所で国札観音という目標の道しるべとして、「左清澄道」「右那古道」を刻んでいる。
(28)順礼道
館山市山荻 小松寺への旧道山中
千倉の小松寺西方の丘陵尾根道の分岐に、菅笠をかぶった順礼者像を刻んだ石塔がある。その上部に「西すぎもと道」とあり、国札観音順礼26番札所小松寺から、33番杉本山観音院へ案内する道標になっている。下には永代村6名と山荻村1名の寄進者名。左側面には「南しらはま道」とある。なお、永代村は明治10年(1877)の合併で山荻村となり消滅した。到達困難。
(29)地蔵尊
館山市水岡 千倉への旧道山中
館山平野(館山市)と千倉町(南房総市)を結ぶ旧道の峠付近にある。道幅は広く、周囲に馬頭観音塔も数基ある。正面上部には地蔵尊を刻み、下部には「北那古(道)」、「南千(倉道)」が刻まれている。文化6年(1806)7月24日(地蔵尊の縁日)に、「南片(岡村)」の「喜右衛門」により建てられた。北片岡村は明治8年(1875)の合併で水岡村に改称。到達困難。
B:里程標
明治政府は、明治6年(1873)、東京の日本橋、京都の三条橋を起点とした全国主要道の道のり調査を命じ、それにより各県庁所在地に木製の里程元標を設置した。
安房郡では明治22年(1889)の大合併後の明治26年(1893)に、各町村役場などの要所に設置されている。
(1)船形ドンドン橋脇
北方にあたる首都東京・県庁千葉・師団司令部佐倉方面や、南の北条町・和田村などへの距離を記している。明治26年(1893)4月、江戸時代以来の主要街道である木の根道沿いに船形村が設置した。
(8)沼区西の浜集会所
正面に「距東京 参拾五里参拾参町四十間」と「千葉県庁」「印旛郡佐倉」への距離、両側面に「西岬(にしざき)村・神戸(かんべ)村」「北条町・豊房(とよふさ)村」までの距離が刻まれている。かつてはバス通りの館山町豊津(とよつ)村境に建っていたもので、両町村が合併した大正3年(1914)に館山町が設置した。
(9)館山地区公民館
正面右に「距千葉県庁 弐拾五里弐拾四町弐拾間壱尺」とあり、中央に「東京」、左に「佐倉町」まで、左右側面に「館山町・西岬村」「北条町・白浜村」までの距離が刻まれている。豊津村役場だった宮城プール入口にあったものが移設された。明治26年(1893)4月に豊津村が設置している。
(13)下真倉自転車店付近の住宅
正面に「樋口法律事務所」とあり、再利用されたことがあわかる。右側面に「白浜村白浜」左側面に「千葉町・木更津町・佐倉町・保田町本郷・平久里村中」までの距離が刻まれる。明治22年(1889)4月の設置で、北条町が建てたものらしい。終戦直後に現在地へ移設された。
(21)大戸大円寺前高台
階段最上段の踏み石になっている。「距千葉県庁 弐拾三里廿五町四拾間」がみえ、隣に東京までの距離も刻まれている。その左にも刻字があるが階段の陰になり判読できない。この高台にはかつて豊房村役場があった。
C:道路元標
大正6年(1919)の道路法施行令に基づき、全国の市町村の中心的なところに設置され「○○町道路元標」などと刻まれている。路線の起点終点として位置づけられた。
(3)那古町道路元標
那古1102 那古郵便局向かい
元は少し南の十字路北西角に設置されていた。旧大和屋の先代が買取り、敷地内へ移設。
(12)船形町道路元標
船形ドンドン橋脇に在ったものが、船形小学校を経て船形小学校を経て博物館へ移設された。
(15)西岬村道路元標
見物の西岬村役場跡入口。
(16)富崎村道路元標
布良崎神社鳥居前道路脇。
(17)神戸村道路元標
旧神戸小学校通用門脇。
作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木徳雄・刑部昭一・鈴木 正・吉村威紀 2021.10.18 作
監修 館山市立博物館
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